■「辰雄にとっては大切な医者」

 加藤周一さんも中村真一郎さんと一緒に十六年の夏、旧軽井沢の辰雄を訪ねて来た
一人で、その頃はまだ大学生だつた。加藤さんの父上の別荘が信濃追分にあったの
で、辰雄は加藤さんが中学生の頃から追分駅の前にあったテニスコートでテニスをし
ている姿を見ていたそうだが、親しく話をするようになったのはその夏からだ。 

 はつきり思い出せないが、福永(武彦)さんや野村(英夫)さんも加わってヴァレ
リーの『ユーパリノス』を輪読するのを、私もそばで聞いていた記憶がある。が、私
はもっぱらそのあとの夕食のことで頭が一杯だったのだろうと思う。古い日記を見る
と「一緒に勉強した」などと書いてあるが、内容は一向に覚えていない。度々書いて
来たが、十六、十七、十八年の軽井沢の初夏から秋にかけての生活は、辰雄にとって
一番ゆたかな、楽しい日々であったと思う。

 加藤さんは今は国際人で、戦後はカナダ、アメリカ、ドイツ、イギリスなどの大学
で講義をし、現在は立命館大学大学院(国際関係研究科)の教授だと聞いているが、私
の親しく知る加藤さんは、東大佐々内科の医者、辰雄を診察し、いろいろと変化する
病人の容体を私から聞き、その処置を指示してくれた大切な、そしてかなり怖いお医
者さんであった。今日、加藤さんが来てくださると聞くと私は緊張し、落ち着きをな
くしてしまう。

 私はどういうわけか、医者という職業の人に対して畏敬の念を抱き、加藤さんに限
らず医者の前に出ると落ち着きを失うように思う。病人の容体を正確に伝えなけれぱ
ならないという思いが強かったのかもしれない。中村さんが一緒だと、助け舟が傍に
いてくれるような気持になった。加藤さんも辰雄を診察する時は鋭い顔つきで、アン
プルから薬を注射器に移す時、アンプルを私に持たせる。私の持ち方が悪いと「もっ
と上げて」と怖い声で言われたりすると、私はドキドキして、妙に悲しくなって、加
藤さんが帰られたあと、一人でシクシク泣いたりした。辰雄はそんな私に「加藤君は
僕の病気を心配するあまり、お前のことなんか忘れてしまうのだよ」と言って私を慰
めた。

 加藤さんは追分に来られると、追分の主治医、里見医師と話し合い、東京の塩沢博
士とも相談してストレプトマイシンを打つ時期などや、出廻り始めた結核の新薬の用
い方なども考えてくれた。二十五年の夏、高熱が続いた時、「今、マイシンを使う時
だ」と言われ、東京から薬が届き、里見医師が注射をした。十二時間のうちに熱が下
がり、命びろいしたことがあった。そのあとマイシンの後遺症がいろいろの形で現
れ、目まいや難聴がそれであるということが判然としない時代で、私はその一つ一つ
を加藤さんに手紙を書き、加藤さんもいちいち返事を下さった。そんな頃、加藤さん
はフランスに行かれ、辰雄が逝った時、加藤さんはパリだった。

 自然を愛し、追分の好きな加藤さんの書かれるものに、人間味あふれるあたたかな
感情に接することが度々ある。そのお便りにはいつも追分の自然の美しさを懐かしむ
思いがこめられている。

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