加藤周一年譜

 (小久保実・中村完・矢野昌邦/編年譜参照 小原博増補)

 

第1期:1919〜1950(渡仏まで)

1919(大正8)年

9月19日、東京府東京市本郷区本富士町一番地(現、文京区本郷7丁目3番1号)に、父・加藤信一(1885−1974)、母・ヲリ子(織子)(1897−1949)の長男として出生。ときに信一34歳、。ヲリ子(旧姓増田) 22歳,。

父信一は、1885年(明治18年)2月20日、埼玉県北足立郡北中丸村の地主加藤龍次〈隆次郎)・多き(たき)の次男として生まれ、中丸高等小学校から旧制・浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)2年に編入し、第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進む。医学部卒業後、東京帝国大学病院の内科医局に勤務し、医局長となり、その後 豊多摩郡渋谷町金王で開業医となる。

母ヲリ子は、1897年(明治30年)3月16日、東京府豊多摩郡渋谷町大字上渋谷の佐賀県出身の陸軍将校(日露戦争の頃は陸軍大佐)増田熊六・ツタの次女として生まれ、雙葉高等女学校(カトリックの洗礼を受ける)を1913年(大正2年)に卒業し、1916年(大正5年)1月に信一と結婚する。

まもなく 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷に転居する。(中渋谷は28年に金王町と改称)


加藤家関連家系図
 母方の祖父 増田熊六

1920(大正9)年 1歳

妹 久子 誕生(10月25日)

1921(大正10) 2歳

父信一と

1922−25(大正9−11)年 3−6歳

1923年9月 関東大震災

父信一 1922年東京帝国大学医学部附属病院退職

周一は雙葉女子尋常小学校附属(現・雙葉小学校附属)雙葉幼稚園にしばらく入園するも長続きせず退園。原田三夫(「子供の科学」(誠文堂))、兼常清佐などの本を読む。

1926(大正15)年 7歳



4月東京府豊多摩郡渋谷町立常磐松尋常小学校(現・渋谷区立常磐松小学校)に入学(1年生のときの担任は本橋兼義)。(住所)渋谷町青山南7-3 辰野保方。修了までのその後の住所名は 中渋谷39、金王21、美竹34 の順に変更されている。)


1927(昭和2)年〜1929(昭和4)年 8歳〜10歳

1928年6月 妹久子と


祖父増田熊六に連れられて従兄たちと映画を見るようになる。
小学4年生のとき、
松本謙次先生が理科の担任であった。4年生末にクラス分けがあり、男子進学クラスに所属。5年で退学・修了。このころ原田三夫「子供の科学」を愛読。「小学生全集」(菊池寛編集・芥川龍之介協力:興文社)全巻を読む。

1930(昭和5)年 11歳

 小学校五年修了予定で東京府立第一中学校の入学試験を受験して合格する。この頃、成績優秀な大工の息子が、貧しさゆえに中学進学をあきらめざるを得なかったことに、社会的不平等を意識する
。父の書斎で万葉集の注釈本を披く。


1931(昭和6)年 12歳

9月満州事変勃発

4月東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)に入学、1学年は5クラス。矢内原伊作・山本進・高坂知英が同学年に在籍したが知り合わなかった学校の教育方針に反発。中学校に入って間もなく、小学校同級生の女友達 山田千穂子から「馬鹿ねえ、知らないの?」と言われて「芥川龍之介選集」を、一年分の小遣いで購い耽読する。父の書斎の万葉集とともに魅了される

1932(昭和7)年 13歳

中学時代に万葉集に接し、芥川龍之介を愛読し、芥川の影響でアナトール・フランスを読む。

1933(昭和8)年 14歳

第一中学になじめず、「空白五年」とのちに「羊の歌」に書く。


1934(昭和9)年 15歳

図画担当の「ネギ先生」(高木先生ただしくは高城次郎先生)が忘れられない教師として登場。


1935(昭和10)年 16歳

府立第一中学校4年のとき第一高等学校試験に落第。一中4年生のとき、風間道太郎の紹介で信濃追分(脇本陣油屋)に妹と共に行き、詩人立原道造と出会う。

1936(昭和11)年 17歳

2月 二・二六事件。5月7日 斎藤隆夫 粛軍演説。

3月府立第一中学校を卒業。
1936年4月
4月、駒場の第一高等学校理科乙類に入学。寄宿寮に入り、2年上級の福永武彦、1年上級の中村真一郎、小島信夫、、さらに同級の長谷川泉、1年下級の原田義人、白井健三郎、2年下級の窪田啓作らを知る。先生には、矢内原忠雄、片山敏彦、五味智英らがいた。五味の指導する万葉集輪講に入り大野晋と会う。小山弘志を通して、能狂言、歌舞伎に興味を持つ。映画演劇研究会に所属する。1936−37年、庭球部に入る。

父母妹と

12月 映画評「ゴルゴダの丘」(筆名:藤沢正)(「向陵時報」12.16・第一高等学校寄宿寮)

1937(昭和12)年 18歳

6月第一次近衛内閣発足。7月盧溝橋事件、日中戦争始まる。11月日独伊防共協定成立。12月南京陥落

矢内原忠雄、筆禍事件で東大を辞職、12月2日その最終講義「自由主義者の遺言」を聴く。
「青春ノート」をとり始める。(−42)



 2月筆名「藤沢正」で学生新聞(向陵時報 第一高等学校寄宿寮 2・18)に映画評「新しき土」(*)(のちに自選集1に収録)執筆、編集委員となる。
 5月「熱川にて」(向陵時報5.30)
 6月「従兄弟たち」(藤沢正:校友会雑誌363)
 10月劇評「アンナ・カレーニナ」(向陵時報10.10),劇評「土」評(向陵時報10.26)
 12月劇評「キノドラマ 新撰組」(向陵時報12.15)

1938(昭和13)年 19歳

3月ドイツ、オーストリアを併合 4月国家総動員法公布

高校3年のとき「校友会雑誌」の編集委員の一人になり、また文芸部委員になる。
夏軽井沢・千ヶ滝で、立原道造を介して中村真一郎と会う。

1月「小酒宴」(筆名「藤沢正」(向陵時報1.17)(確認しうる最初の小説掲載)
2月 映画評「鎧なき騎士」(向陵時報2.1)、小説「正月」(校友会雑誌362)(のちに自選集1に収録)
4月「新協劇団「春香伝」評(向陵時報4.30)
5月「黴」評―新築地(向陵時報5.16)「熱川にて」(向陵時報5.30)
6月「新協劇団「火山灰地」評(向陵時報6.21)、「従兄弟たち」、「編集輯記」(校友会雑誌363)(のちに自選集1に収録)
9月「こんな男」(向陵時報9.20)
10月「映画『冬の宿』について」(向陵時報10.18)
11月「秋の人々/投稿作品に就いて」(校友会雑誌 364)、「小品二つ」(アドバルーン/童謡を歌った青年)(向陵時報11.11)
12月「新劇協同公演文学座『秋水嶺』『釣堀にて』評(山本嘉郎と共著)
(向陵時報12.12)


1939(昭和14)年 20歳

1月平沼騏一郎内閣発足 8月 独ソ不可侵条約締結 阿部信行内閣発足 9月 ドイツ、ポーランドに進撃、第二次世界大戦始まる。

3月一高「国文学会」主催の座談会に横光利一をよび弾劾する。一高理科乙類卒業  4月 医学部入試に失敗して1年間浪人する。世田谷区赤堤に転居。

1月31日立原道造の「暁と夕の詩」を筆写する(2011.10)(
2月筆名:藤沢正「戦争と文学に関する断想」(向陵時報2・1)(のちに著作集8,自選集1に収録)、筆名:春藤喬「都会の雪」「鴉」「机上」(向陵時報2.23),校友会雑誌(365)(*) 第一高等学校校友会(2.28)
6月同人誌「崖」を小島信夫、矢内原伊作らと作る。創刊小説「春日抄」(崖)
7月「藤田惇二君のこと」(*)(藤田惇二君の思ひ出)(田中大二、藤田信子)
10月詩「窓」(崖・崖発行所)。新古今集に親しみはじめる。

1940(昭和15)年 21歳

1月米内光政内閣発足 2月齋藤隆夫「反軍演説」で除名  6月ナチスドイツ軍パリ占領、7月近衛第二次内閣発足 9月日本軍北部仏印進駐、日独伊三国同盟成立  10月大政翼賛会発足

4月東京帝国大学医学部に入学。辰野隆のはからいで、仏文研究室にも出入りする。渡辺一夫、鈴木信太郎、中島健蔵らがいた。やがて森有正・福永武彦・三宅徳嘉らを知る。また文学部哲学科の友人立石龍彦をとおして法学部の川島武宜を知る。大学1年のとき肺炎に続いて湿性肋膜炎で九死に一生を得る。ヴァレリーを読む。
この頃、太田正雄の「皮膚科学講義」を受講し感銘を受く


1月 伊藤静雄らの雑誌「山の樹」にハンス・カロッサ「古い泉」を翻訳。
2月 翻訳「リルケ「風景に就いて」」(山の樹)、「秋風に/或る日」(崖)
7月
 小説「旅行に就いて」(崖)。
10月 「牧場に就いて」(崖)。
「倦怠について」(しらゆふ白木綿(創刊号))

1941(昭和16)年 22歳

世田谷松原の借家へ引っ越す。父は開業せず、伊豆の結核療養所に勤務していた。水道橋能楽堂に通う。
12月8日あるいは9日、新橋演芸場で大阪の文楽・引越興行(二世豊竹古革刃太夫)を見る?。
垣花秀武もその日か別の日に観劇した?。(のちの鷲巣力の調査では、文楽興行はなかった。おそらく豊増昇のベートーヴェン・ピアノソナタ連続演奏会の最終回に行ったと思われる)いずれにせよ、「羊の歌」は小説である。
「嘗て一冊の「金槐集」余白に」(しらゆふ2)(*)


1942(昭和17)年 23歳

4月米空軍日本初空襲 10月日本軍ミッドウェーで米軍に敗退。
写真は英訳「羊の歌」所収
7月 『文學界』「近代の超克」シンポジウム開催される。河上徹太郎(司会)、西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫の13名が出席。9月号には西谷啓治、諸井三郎、津村秀夫、吉満義彦の論文が、10月号には亀井勝一郎、林房雄、三好達治、鈴木成高、中村光夫の論文とシンポジウム記録が掲載される。

秋、中村真一郎、福永武彦、窪田啓作、原田義人、白井健三郎、中西哲吉、原條あき子、枝野和夫、山崎剛太郎、小山正孝らと詩グループ「マチネ・ポエティク」(命名・福永武彦か?)を結成。赤堤の加藤家には、山崎剛太郎、窪田啓作、中西哲吉や原田義人らが集まった。
12月「物象詩集に就いて」(*)(四季70・四季社)

この頃、カソリック指導者岩下壮一の著作をさかんに読み、岩下に師事した倫理学の吉満義彦の講義を受ける。

1943(昭和18)年 24歳

10月学徒動員

9月25日、東京帝国大医学部を繰上げ卒業。東大附属病院医局佐々内科に無給副手として勤務(43年10月前後から58年8月前後まで)し、血液学を研究、無給医局員として働きはじめる。医局には中尾喜久、三好和夫がいた。のちに美甘内科にも所属。3時間の通勤時間中にラテン語を学習。同人雑誌「早蕨」に、ピエール・ルイスや、藤原定家を論じた文章を発表。
11月 詩「妹に 2編」(PREMIER SONNET , DEUXIEME SONNET )(向陵時報11・10)
(のちにDEUXIEME SONNET は著作集13、PREMIER SONNETは薔薇譜に収録)(のちに自選集1に収録)

医学部内科教室の学生たち 後方ひとり無帽が加藤、
最前列右端は島薗安雄。
加藤と島薗は敗戦直後の
日米合同原爆影響調査団に加わった

1944(昭和19)年 25歳


6月 連合軍ノルマンディー上陸。8月パリ解放。10月レイテ沖海戦。11月B29本土空襲。

4月「佐々内科医局から」(*)(しらゆふ 別第二号 東大医学部 昭和十五年会)
5月 戯曲「トリスタンとイズーとマルク王との一幕」(向陵時報5・31)

 

1945(昭和20)年 26歳

3月 東京大空襲(9日―10日)の時、本郷東大病院で治療にあたる。そののち、春、佐々内科とともに信州上田の柳沢病院と結核療養所「奨健寮」に疎開。佐々内科の人々

5月 輸送船で送られた中西哲吉フィリピンで戦死。
「太平洋のいくさの全体のなかで私にどうしても承認できないことは、あれほど生きることを願っていた男が殺されたということである」(「羊の歌」)
8月 広島長崎に原爆投下、15日敗戦を迎える。信濃追分で片山敏彦に会う。
9月初め 東京(目黒区宮前町の借家)に戻る。
10月 東大医学部と米軍医団共同の「原子爆弾影響日米合同調査団」の一員として広島に約2ヶ月赴任。
米国側にはフィリップ・ロッジ中尉がいた。戦後、このときに知り合ったメイスン博士を仲介にして、米国留学を図った(しかし、母ヲリ子の逝去を契機に、沙汰止みになる)

1946(昭和21)年 27歳

5月東京裁判、 11月日本国憲法公布
5月30日 中西綾子(1924〜2001)(医家に育つ・東京女子大学卒)と見合い婚。
中村真一郎、福永武彦と新雑誌「使命」を企画したが実現せず。
10月「藤原定家-『拾遺愚草』の象徴主義」脱稿(のちに『文藝』1948.1)

3月「〈作家案内〉ジャン・リシャール・ブロック」(文学時標3・15)。荒井作之助(ある農民の名前を借りて)の筆名で「天皇制を論ずー不合理主義の源泉」(*)(『大学新聞』:財団法人大学新聞社 3・21懸賞評論当選作)(のちに「天皇制を論ず―問題は天皇制であって天皇ではない」と改題)(のちに著作集8,自選集1に収録)。
4月 「文學検察(五)横光利一」(*)(文学時標4.1)「仏蘭西の左翼作家」(大学新聞4.11)。
5月「佛蘭西には何が起つたか?」(*)(ふらんす 5.21)
6月「逃避的文学を去れ!―敗戦後の文学の姿―」(『帝国大学新聞』6・11)(のちに著作集6に収録)、「天皇制について」(荒井作之助の筆名で)(*)(「女性改造」改造社)(のちに自選集1に収録)
7月1日 雑誌「世代」(目黒書店)(いいだもも・遠藤麟一朗)(1946.7−1946.12)のコラム”CAMERA-EYES”に 中村真一郎、福永武彦らとともに連載時評を執筆。”CAMERA-EYES”新しき星菫派に就いて」(*)(世代創刊号・目黒書店),(のちに著作集8,自選集1に収録)、「EUROPE, revue mensuelle」(*)(46.4.23)(ふらんす』(白水社)
9月「”CAMERA-EYES”或る時一冊の亡命詩集の余白に A MONSIEUR M.KAS(Z)AMA」(*)(世代 /風間道太郎に)、「ジャン・ゲノに就いて」(*)(近代文学 9.1)、「暗黒をひらけ」(文学時標)
10月「ヒューマニズムと社会主義」(*)(黄蜂第1巻3号/野間宏)、座談会「フランス文学を語る」(*)(「近代文学」(荒正人、佐々木基一、埴谷雄高、河合亨、中村真一郎)。「小説の問題/高見順、渡邊一夫、加藤周一」(季刊藝術 III)、「”CAMERA-EYES”一九四五年のウェルギリウス」(*)(世代)、
11月シャルル・デュ・ボス「バッハに就いて」(翻訳)(*)(世代)、「ハックスリ」(文学時標11.10)「”CAMERA-EYES”焼跡の美学」(*)(世代),「ロマン・ロランの肖像」(*)(女性改造 改造社),「革命の文学と文学の革命―森有正、石川淳両氏の文体」(帝国大学新聞11.13)
12月
”CAMERA-EYES”我々も亦、我々のマンドリンを持ってゐる」(世代)、短編小説「夢の後に」(「高原」2号・鳳文書林)

1947(昭和22)年 28歳

3月 教育基本法、学校教育法公布 5月 日本国憲法施行

                      六隅許六(むすみころく)(ミクロコスムのアナグラム)こと渡辺一夫装丁「1946 文学的考察」

1月「サルトルの誤解―無縁の衆生”実存主義”」(*)(帝国大学新聞1.1)。
2月「渡辺一夫著「空しい祈祷」」(文化ニュース2.17)
3月「サルトル及び実存主義は何処にあるか(*)」(文化ウィークリー3.3:新興藝術社)、「風俗時評(一)(ニ)」(時事新報3.6=7)、「書評 サルトル著 白井浩司訳「嘔吐」 無の不安-リルケと共に二つの孤独」(*)(日本読書新聞)
4月「ジュール・ラフォルグ又は諷刺家の心情」(*)(「諷刺文学」創刊号・イヴニングスター社)、「ソネット」(のちに「シェークスピアのソネット」と改題)(「批評9・シェークスピア特集号」,「マチネ・ポエティクとその作品について」(近代文学)、「リアリズムと小説」(*)(「季刊 藝術」3号:八雲書店:「文學と現実」1948所収、のちに「レアリスムと小説」と改題して『現代日本文学全集96 現代文藝評論集(三)』筑摩書房58・5 に収録)、「マチネー・ポエティク作品集第二 マチネー・ポエティクとその作品に就いて/(詩)妹に」(*)(近代文学)(のちに箕作秋吉作曲「SONNETS 妹にII」()),座談会「平和革命とインテリゲンチャ」*)(福田恆存・花田清輝・日高六郎・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一)(
「近代文学」八雲書店 4.20)
5月「1946:文学的考察」(中村真一郎・福永武彦と共著*真善美社)。「オルダス・ハックスリの回心 TO DR.JOHN P.LOGE」(のちに著作集8,自選集1に収録)、「金槐集に就いて」(のちに著作集8,自選集1に収録)、「寓話的精神」「知識人の任務 A MONSIEUR LE PROFESSEUR K.WATANABE」(*
6月「ヴァレリイ頌―知られざる詩人に」(*)(「詩人」47.5=6 矢代書店)(のちに「ポール・ヴァレリー」と改題して「現代フランス文學論」1951「詩および詩人」1971、著作集1,自選集1に収録)、「大野俊一訳「現代フランスの文学開拓者」クルチウスと広義象徴主義」(*)(大学 大学文化社)、筆名「周」で「時事新報」に「歌の翼」(6.5)「ベレー帽」(6.10)「原口統三」(6.15)。「所謂デカダンスに就いて」(藝術新聞6.21)。
7月 「近代文学」同人となり、中野重治と「政治と文学論争」をしていた荒正人と文学論争、荒の小市民的エゴを批判した「IN EGOISTOS」(*)を発表。「人間」(木村徳三編輯長)に送った原稿「信仰の世紀と七人の先駆者」(*)で、初めて給料を得る。花田清輝らと雑誌「綜合文化」創刊、「亜米利加に学び理性をもとめるための方法叙説」(「綜合文化」創刊号・真善美社)、「リアリズムと小説」(藝術 第3号)、「日本人のinferiority complex ある婦人への手紙」(*)(6.9)(進路・進路社)
8月「マチネ・ポエティック作品集第一」(解説 福永武彦)詩「月夜」(*)(月刊 詩人 矢代書店)、「能と近代劇の可能性」(*)(『古典発掘』真善美社;加藤周一・中村真一郎・佐々木基一・岡本潤他)(「文學と現実」1948、「舞台または能と近代劇」と改題して「知られざる日本」1957、「現代教養全集26 古典案内」1960所収、のちに著作集7に収録)、「サルトルと革命の哲学―現代フランス書籍展の印象」(*)(文化タイムズ8.11)、「我々は現実に還ろう」(読売ウィークリー8.16)、詩「別れの歌 第三」(詩学:岩谷書店)
9月「妹にIII」(綜合文化)、「革命の文學と文學の革命―『ユーロープ』誌の役割に就て」(*)(「人間」)のちに「文学の革命と革命の文学―「ユーロップ」誌の役割について」と改題して「現代フランス文學論」1948に収録)、「近代文学サロン」欄/編集後記(近代文学)、詩「魔王」(短歌雑誌八雲:八雲書店、小説「三つの話(我が伊太利亞に赴くは/金色の海の道―又は或る少年の死、トリスタンとイズーとマルク王の一幕」(*)(綜合文化)(のちに「三つの前奏曲」と改題して「道化師の朝の歌」1948に収録),「文楽・歌舞伎・能」(上)(下)」(時事新報9.16=17)。「一八世紀のフランスの医者」(ともしび)。
10月「話の泉」(時事新報10.17)
11月「象徴主義的風土」(花5:新生社)(のちに著作集1、自選集1に収録)、「日本の牛」(近代文学)「四章―伊藤左千夫の主題による四つの四行詩」(詩人)(のちに著作集11、自選集1に収録)、、座談会「コミュニズムと人間の自由」(*)(中村哲・野間宏・赤岩栄・眞下信一松本愼一)(世界評論)、
12月 1日小説「悪夢」(*)(「人間小説集(*):別冊1」:鎌倉文庫),「日本文学の伝統」(*)(東京新聞12.3)、詩「白樺」、「二つの島」(のちに改題「愛の歌」)(*)(のちに著作集13、自選集1に収録)、(「文藝」河出書房)、座談会「二十代座談会 青春の再建」(*)(光
CLARTE)(中村真一郎、三島由紀夫、田代正夫、寺沢恒信、石島泰、上野光平、三浦節、升内佐紀) 

1947年6月 広島にて 三好和夫と

1948(昭和23)年 29歳

1月17日座談会「日本詩の韻律の問題」(鮎川信夫/城左門/中桐雅夫/相良守次/岩谷満/窪田啓作/湯山清)(*)(第一相互東洋軒)、
内田善彦・森有正・木下順二・野間宏・瓜生忠夫らと『資本論』(英訳・邦訳)輪読会をもつ。

1月 短編「ミチルの手記」(*)(「近代文学」)、詩「Deux RONDELS」(雨と風:さくら横ちょう(のちに著作集13,自選集1に収録)(「綜合文化」)、「どんだろう」(大学:のちに「狂言に関する一挿話―どんだろう」と改題)、「藤原定家-『拾遺愚草』の象徴主義」(*)(「文藝」)(のちに『詩および詩人』、自選集1に収録)、「神秘主義解義」(*)(東大新聞1.15)、「「美女と野獣」の幻想」(*)(毎日新聞1.19)、座談会「ジッドのあとに来るもの」(河盛好蔵・白井浩司・野間宏・佐々木基一・伊吹武彦)()(世界文学 1.10)
2月「正常人唾液の悪性貧血者血液像に及ぼす影響」(日新医学)、座談会「現代作家研究(一)永井荷風」()(文藝)(2.1)「アンドレ・ジードと文藝批評の問題」(*)(人間 第三巻第二号 鎌倉文庫)、「伝統は生きる」(読売新聞2.16)、「コンディヤックの『感覚論』について」(季刊「表現」・冬季号;角川書店)、10日小説「黄金の家」(*)(「思潮」7:昭森社)、座談会「戦後(アプレ・ゲール)文学の方法を索めて」(佐々木基一・花田清輝・野間宏・福田恆存・加藤周一)(*)(綜合文化)、「コンディッヤックの『感覚論』に就いて」()(「季刊 表現」第1号 冬季号)、「健康に就いて」(個性:思索社)「伝統は生きる」(読売新聞2.16)、正常人唾液の悪性貧血患者血液像に及ぼす影響について」(日新医学35:南江堂)
3月「ボードレエルに関する講義草案」(「批評」9)、座談会「悲劇について」(*)(岡本太郎、花田清輝、野間宏、佐々木基一)(綜合文化)、「漱石に於ける現実―殊に『明暗』について」(國土3−4)(「夏目漱石に於ける現実」と改題して「文學と現實」1948に収録、「美しい日本」1951、「現代日本文學全集96、『夏目漱石』(有精堂1970、「現代日本文學大系82」所収、のちに著作集6,自選集1に収録), 「フェミニスト座談会」(*)(藤田嗣治,吉村公三郎、河盛好蔵)(
表紙・岡田謙三)(婦人公論32巻3号)、
4月1日長谷川泉宛葉書(*)、「文藝批評と修辭學」(*)(「人間」3)、「将軍の狂信」(*)(「文藝春秋」26),対談「文學と政治」(*)(宮本顕治)(展望)、「コクトオ覚書」(*)(「世界文学」20・世界文学社)
5月短編「不思議な話」(*)(「文藝」)、「ルイス頌」(*)(「至上律」4号:青磁社),18日長谷川泉宛葉書(*)、座談会「日本詩の韻律の問題」(鮎川信夫/城左門/中桐雅夫/相良守次/岩谷満/窪田啓作/湯山清)(*)(詩學 5.30)
6月「夜曲」(*)(中央公論)、「カール・ヤスパースの精神病理学」(*)(近代文学)(のちに「カール・ヤスパースの「精神病理学総論」に就いて」と改題して「文學と現実」(中央公論社)1948.9.15に所収)、「現代フランス文学の問題-「現代フランス文学論」の序」(*)(新文学:全国書房)、「二人の小説家」(東京新聞6.13)
6−8月コンディヤック感覚論上下創元社〈哲学叢書〉三宅徳嘉と共訳)(*)
7月1日「プラトンに於ける愛」()(婦人文庫 第3巻第7号)(鎌倉文庫)、1日「マチネ・ポエティク詩集」(「真善美社」:
限定750部・福永武彦・加藤周一・原條あき子・中西哲吉・窪田啓作・白井健三郎・枝野和夫・中村眞一郎)(*)、森有正、中村真一郎らと同人雑誌「方舟」を創刊、編集長は原田義人、「ジャン・リシャール・ブロック又は或る音楽的魂に就いて」(*)(河出書房)を掲載。「Chininの神経精神機能に与える影響」(精神神経学雑誌50)、座談会「リアリズムをめぐって」(*)(岩下順一・荒正人・中村眞一郎・野間宏・花田清輝・佐々木基一)(総合文化7月号),25日「一枚のドゥランに」(*)(改造文芸第2号・改造社)
8月座談会「文学と平和への意志」(花田清輝・矢内原伊作・野間宏・荒正人)(*)(人間3巻8月号)(鎌倉文庫)、「ロベール・アロン「ドイツの異教主義」(翻訳)(ヨーロッパ:鎌倉文庫)
9月 短編「二重の誤解」(*)(「方舟」2)、「方舟」は2号で終刊、「文體について」(*)(文藝)(のちに「文體論」(*)(『文藝評論代表選集 昭和二十五年度版』日本文藝協会編 中央公論社 1950)に収録、のちに(「文体について」著作集1に収録)、短編・戯曲集「道化師の朝の歌」()(河出書房〈方舟叢書〉)
,「文学と現実」(中央公論社)、「レ線大量一時照射の血液並びに造血器に及ぼす影響(第2報)―骨髄像の変動に就いて(共著)」(日本血液学会雑誌)
10月評論集「現代フランス文学論I」(銀杏書房)(*)「二つの証言―ヨーロッパ人はかく語りき」(千葉医科大学新聞10.25)
11月10日小説「女と蛇と山芋の話」脱稿(『社会』1949新年号鎌倉文庫に収録(*))
12月1日「孤獨の意識と廣場の意識―或る小説家への手紙」(*)(「個性」・思索社)、ジャン・カッスー「一つの自由と多くの自由」(訳)(*)(ヨーロッパ2;12.1)

作詞「花輪のワルツ」(作曲・箕作秋吉「働く婦人」)(*)(日本民主主義文化連盟)

+「キニーネの神経精神機能に与える影響」(精神神経學雑誌)(1948年50巻2号)

1949(昭和24)年 30歳

10月 中華人民共和国成立

春 浦和から東京へ通勤(50年5月頃まで)
5月30日母ヲリ子胃癌で逝去。 
荒正人と星菫派についての論争。(荒正人「オネーギンをのせた「方舟」」(赤い手帖)。京都古寺を訪ねる。

1月ー8月「ある晴れた日に」を「人間」(木村徳三編集長)に連載。
1月1日「女と蛇と山芋の話」(*)(社会4巻1号:鎌倉文庫),「二人のモリヤック」(展望:筑摩書房)。「血液学の進歩1941−48」(共著・日本臨床),「カトリシズムと現代―実存主義及びコムミュニスム批判」(*)(高桑純夫ほか編『世界観の探求』河出書房)
2月1日「文学者の道徳」(*)(婦人公論)(のちに「太宰治、または文学者の道徳について」と改題「美しい日本」1951所収)、「いはゆる「アプレ・ゲール派」とは何か」(*)(新潮)、「途絶えざる歌ーフランスの『抵抗』と詩人たち」(*)(展望)、「オルダス・ハックスリの最新作『時間は停まらなければならない』に就いて」(*)(黄蜂4・最終号)
3月「木下杢太郎の方法について」(*)(文藝往来)(「美しい日本」1951、「知られざる日本」1957、「現代日本文學大系82 1971所収、のちに著作集6,自選集1に収録)、「戦後のフランス映画」()(K.Sの筆名で)(展望)
4月「フルトヴェンクラーの不幸」(*)(文学界3)、臼井吉見の斡旋で宮本顕治と対談「文学と政治」(*)(展望)(のちに対話集3(かもがわ出版)に収録),「芥川龍之介『夜来の花』解説」(新潮文庫)(*)(のちに『美しい日本』、自選集1に収録)(『生誕120年芥川龍之介 関口安義編・巻林書房 編集後記 2012)
5月「何が美しいかといふこと―庭とブギヴギについて」(*)(女性線第四巻・第五号:女性線社)
6月三宅徳嘉と共訳「感覚論」(上)(創元社・哲学叢書24)、「詩壇の或る傾向について」(*)(詩学19号)(通巻25号第4巻5号)(6.30)、
7月「サルトルの位置づけ」(*)(展望)、「マチネー・ポエティーク」(*)(國文學 解釋と鑑賞)(至文堂)(7.1)、「現代短歌に関する私見」(*)(短歌研究 第6巻第7号)
8月ー10月「文藝」の文藝時評を担当。
8月1日「文藝時評 私小説の栄枯盛衰」(*)(文藝)(「美しい日本」1951所収)、「何が人間的であるかといふこと―引揚者と金持と女学生」(*)(女性線)
9月「文藝時評「現代詩」第二藝術論」(*)(文藝)、座談会「日本的感覚・意識について」(南博、鶴見俊輔と)(*)(人間)(鎌倉文庫)、「人間像の変革へ―戦後フランスの知性」(*)(東京大学学生新聞9.26)、「極超短波の生物に及す影響に就いて(第3報)―血液並に造血臓器に対する作用(共著)」/巨核球性骨髄性肝脾腫の3例」(日本血液学会雑誌12)
10月「『きけわだつみのこえ』を読んで」()(日本戦没学生手記編集委員会編 東大協同組合出版部)、「
文藝時評 文學のうしろに寝てゐられないことについて」(*)(文藝)、「木下杢太郎とシナの医学」(近代文學)(のちに著作集6,自選集1に収録)、「植民地文化について」()(展望)、「芥川龍之介の文章」(『現代日本小説大系』新現実主義1、河出書房・月報7)。「外国の文学とわれわれ―流布されてゐるいくつかの説について」(ESPOIR3)、「「武蔵」と「永井物」―誰が書き、誰が読むのか」(学園新聞・京都大学新聞社)
11月「漢方医の脈」(朝日新聞11.5)、「きけわだつみのこえ」(「報知新聞」11・10)(「わだつみのこえに應える―日本の良心」東大協同組合出版部 1950..6.10 再版1950.7.1(*)に収録)、「共産主義と進歩的キリスト者―U・C・Pを中心として」(*)(潮流:潮流社)、「何がほんとうであるかということ」(*)(新日本文学:新日本文学会)
12月「日本語の運命」(*)(展望)、「文芸雑誌の売れないわけ」(近代文学)、座談会「きけわだつみのこえをめぐって―戦争と二十代」()(窪川鶴次郎、臼井吉見、司会 羽仁説子、ほか学生4名)(学生評論 3号(通巻21号))
、「象徴主義的風土」(『現代世界文学講座フランス編』(*)河盛好蔵編・新潮社 12.25)

 

1950(昭和25)年 31歳

1月 平和問題談話会声明、全面講和・中立・軍事基地反対を主張、
2月2日 医学博士となる。
5月浦和を去る 東京都文京区駒込西片町9番地へ 
6月朝鮮戦争始まる
(〜53年) 
8月警察予備隊令公布

1月 短編小説「失はれた指環」(*)(女性改造)、「新しい人間像ーアラゴンの場合」(*)(人間),「フランソワ・モーリヤック」(近代文学)「戦後のカトリシズム」(展望)、毎日新聞文藝時評[原子核」(筆名235)(*)(1月15日から4月16日まで12回)を担当、「現代詩、用語とリヅムの問題」(国文学 解釈と鑑賞)、「野間宏の「時代の眼」について」(近代文学)、「若い者の立場―思想を信じないという思想」(*)(朝日新聞夕刊 1.19)
2月座談会「アプレ・ゲール アヴァン・ゲール」(浦松佐美太郎・ぬやまひろし・中村秀一郎)()(日本評論2月号 日本評論社)、「日本の庭―To Professor N.Nakanishi」(*)(文藝)。「戦後文学と娘たち」(東京日日新聞2.11)、座談会「新しい文学の方向」()(三島由紀夫、中村光夫、小田切秀雄、野間宏、椎名麟三)〈展望)、「サルトル」(*)(大百科事典:新補遺2:平凡社)
3月「民主主義文学論」(文芸)、「鴎外と洋学―外国文学理論の移植について」(文學)(「美しい日本」1951所収、のちに著作集6,自選集1に収録)、「サルトルと映画「賭はなされた」を繞って」(*)(文學界)、「サルトルの『自由の道』−小説の運命」(*)(展望)(のちに「ジャン・ポール・サルトル」(『現代フランス文学論』)「『自由への道』と小説の運命」(*)(「サルトルの全体像」ペリカン社1966、新泉社1969)、自選集1に収録)、「幸田露伴著『風流艶魔伝』―生きている露伴」(図書新聞)、「民主主義文学論―宮本百合子をめぐって」(文藝)、座談会「日本共産党にもの申す」(世界評論)(*)(中島健蔵、高橋純夫、、中村哲と)、
「戦後文学の偉大と悲惨」(*)(日本読書新聞)、「想い出」(鐵門だより)「ある晴れた日に」(月曜書房)(序文 渡辺一夫)(編集長 永田宣夫)

4月「トロワフォンテーヌ『サルトルとマルセル」(*)(人間)、「現代詩と科學」(*)(現代詩講座1「詩とはなにか:創元社 4.15)、「サルトル」(*)(哲学講座5 哲学と文学:筑摩書房)、「宮城音弥著「近代的人間」」(日本読書新聞4.26)、座談会「現代文学の全貌」(青野季吉・阿部知二・伊藤整・蔵原惟人・小林秀雄・白井浩司・中村光夫・野間宏(司会)中島健蔵)()(「文藝」第7巻第4号 河出書房)、「x線大量照射がモルモットの造血器官に及ぼす影響の病理組織学的研究」(*)(*)(日本医学放射線学会雑誌10巻1号)
5月「演劇のルネッサンスーポール・クローデルを繞って」(*)(人間)(「現代フランス文學論」1951、「ポール・クローデルを繞って」として「新選現代日本文學全集34」1959、のちに「演劇のルネサンス」として著作集11,自選集1に収録)、「「細雪」の雪子など」(新女苑:中村真一郎への往復書簡:実業之日本社)(のちに「日本の女―『細雪』をめぐって」と改題)、座談会「風にそよぐ知識人」(*)(中野重治・阿部行蔵・竹内好・広津和郎誌上参加)(「世界評論」)
6月「フランシス・カルコのパリ」(*)(展望)(のちに「詩人の都―フランシス・カルコの場合」と改題して「現代詩人論」1951、「詩および詩人」1971に収録)、〈書評〉松田道雄「結核をなくすために」(サンデー毎日6.4)、〈書評〉フロベール、生島遼一訳「感情教育」(*)(図書6.5)、「月日の経つのは」(サンデー毎日6.11)、「悪夢の環の再発見―野間宏『青年の環』(第二部)」(*)(東大学生新聞6.22)、「アラゴン/サルトル/象徴主義/抒情詩/マルロー」(*)((世界文学辞典:河出書房)
7月「世界名作大絵巻 家なき娘(翻訳)」(女学生の友:小学館)、「〈書評〉「ヴァレリー全集」7「精神についてI」(*)(図書新聞7.26)、「巨大核細胞性骨髄性肝脾腫の3例」(日新医学37)、「アルベール・カミュの証言」(雄鷄通信:雄鷄社)
8月1日座談会「文學と科學」(*)(高見順、武田泰淳、福田恆存)(中央公論)、「サルトルのアメリカ論」(*)(人間/目黒書店)、「
現代文学の課題・創作方法・2 現実主義ということの意味」(*)(新日本文学5)、「文學とは何か」(*)(角川新書・角川書店)、「実存主義の伝統について―バンダの近作を廻って」(雄鷄通信)、「寝苦しい夏の安眠法」(*)(筆名 加藤周(めぐり))(婦人生活)、「ロベルト・シュウマン」読後(近代文学5)、〈書評〉「ウィルジル・ゲオルギウ、河盛好蔵訳「二十五時」(*)(サンデー毎日8.13)、「渡辺一夫「仙人掌の歌」を読んで」(日本読書新聞8.23)、
9月1日「三つの小説論」()(文藝)、「藝術の魅力ぬきの藝術論」(*)(展望 第57号)、「シモーヌ・ド・ボーヴォアールの女性論」(婦人公論)、「永井荷風」(『日本文学講座 6 近代の文学 後期』河出書房、折口信夫ほか2名監修),矢内原伊作「現代小説の可能性 『迷路』と『或る晴れた日に』)(*)(図書 9.5)
10月「『1984年』の絶望―現代の『絶望と希望』)(日本評論)、「病床の堀さん」(*)(文學界),「現代フランスの演劇―その一つの傾向について」(のちに「現代フランス演劇概観」と改題)(世紀:エンデルレ書店)、「ボヴァリー夫人―映
と小説」(*)(文藝)、「「1984年の絶望」(日本評論)、「「ぶどうの会」に」(「夕鶴/たつのおとしご」公演パンフレット)、座談会「若き女性を語る」(岡本太郎・高澤圭一・芥川也寸志)(*)(婦人公論)、「心の底から起る感動―フランスレジスタンスの記録 ルイ・アラゴン著 淡徳三郎編「愛と死の肖像」(*)(三田新聞10.30)
11月「つくりだす幸福ー愛の詩人・パットモア」()(女性改造第五巻十一号 改造社)(のちに「「詩人の愛―カヴェントリ・パットモアの場合」と改題して「現代詩人論」1951、「詩および詩人」1971に収録))、「~祕家・ヴァレリー」(*)(ヴァレリイ全集通信 月報第4号 ヴァレリイ全集第10巻 作家論(I)筑摩書房 11.10)、(「心配な’愛国心’の再興」(*)(朝日新聞11.26)、「戦後のフランス文学」(『現代フランス文学- 新しい動き―』(*)白水社(渡邉淳・野間宏・新庄嘉章・小場瀬卓三・白井健三郎と共著)。「幸福でない話」(婦人民主新聞11.5)、「ポール・エリュアール―詩と真実他」(現代詩講座:創元社)
12月〈書評〉「切実な社会問題の提起―極光のかげに」人間選書I)(*)(全国出版新聞12.1)、「フランス文学辞典」(*)(全国書房)の「アンドレ・マルロ、ジャン・ゲーノ、ジャン・コクト、ジャン・リシャール・ブロック、ラモン・フェルナンデス、ロマン・ロラン、デステュ・ド・トラシ、ポル・ニザン、『征服者』、『希望』の項執筆、「忘れられた”大衆”―風俗小説への反省」(*)(東京タイムズ12・7)、「所謂”大衆的”と異なる”大衆的”」(新山梨新聞12.10)、「理性」(*)(市原豊太編『人生に関する五十八章』・河出書房)。

 

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