「文学的自伝のための断片」

Arma virumque cano

加藤周一





マルクス主義


 「群像」の中島さんから文学的自伝を書けといわれた。しぱらくすると本多秋五さ
んが「週刊読書人」に連載中の「物語戦後文学史」のなかで、「一九四六文学的考
察」という昔私が福永武彦・中村真一郎と共に書いた本に触れているのをよんだ。本
多さんはこの本のなかに軽井沢のことが書いてあるのは玉にきずであるという。「日
本の現実」を知らぬところが不都合である。要するに「一九四六文学的考察」の連中
は「第一次戦後派」ではない、そもそも「第一次戦後派」というのは、「マルクス主
義―戦前の日本で唯一の社会科学であり、宗教でさえもあったもの―の洗礼をうけた
前歴をもつ」連中であるともいう。このそもそも以下のところで私は少しおどろい
た。本多さんは本気であろうか。戦前の日本では天皇が生神様であるということに
なっていた。それが「日本の現実」であるとすれぱ、マルクス主義を宗教としてうけ
とった「第一次戦後派」は、もしその話がほんとうなら、「日本の現実」をはなれて
いたということになりそうである。しかもその同じマルクス主義が杜会科学としても
うけとられていたということになると、私には何がどうだったのかよくわからない。
聖書考古学は科学である。キリスト信仰は宗教である。同じものが同時に科学でもあ
り宗教でもあるという考えのからくりがはっきりしない。おそらくこれもまた絶対矛
盾の自己同一で、絶対矛盾の自己同一こそは「日本の現実」だということであろう
か。


 私はいくさのまえにマルクス主義の本を少しばかりよんだことがある。たしかにこ
れは「洗礼」というほどのものではない。現に私は共産党とどういう関係ももたな
かったばかりでなく、日本共産党の指導者の名まえさえ知らなかった。私が東京の高
等学校へ入ったときに、綜合雑誌では大森義太郎が「餓ゆる日本」というような論文
を書いていた。それから大森は映画批評に転じ、それから沈黙させられた。しかし当
時の学内にマルクス主義に影響された学生運動は全くなかった。それでも私が少しば
かりよんだマルクス主義の本は、日本の中国侵略戦争が「王道をひろめる」とか何と
かいう偉そうなことではなく、要するに植民地獲得のためのいくさであり、「資本主
義最後の段階としての帝国主義」のいくさの典型的なものだということを理解するた
めには、充分に役立った。もしこの帝国主義戦争の現実が当時の「日本の現実」に他
ならなかったとすれば、私が当時学生の分際で全く「日本の現実」を知らなかったと
はいえないだろう。

 
 しかし本多秋五さんのいう「日本の現実」は、帝国主義戦争―これはもちろん鶴見
俊輔さんもいったように、一九三〇年代のはじめからつづく十五年戦争である―の現
実ではないのかもしれない。それならば何であるか私にはわからない。私にわかるの
は、とにかく本多さんにとって、「日本の現実」が軽井沢とラテン語とは折合わない
何ものかだということだけである。軽井沢の格もあがったものだ。私のラテン語も買
被られたものだ!

 



軽井沢

.

 

 私はいくさに反対して軽井沢へ行ったのではない。夏涼しいから行ったのである。
いわゆる軽井沢旧道のあたりは、今では会社の寮があってはなはだ庶民的だが、昔は
金もちのあつまるところで物価が高かったから、私は信濃追分というところへ行っ
た。ここをぜい沢な避暑地だと思うのは、想像力が豊かで、古典文学に沈潜し、下情
に通じない文芸批評家だけであろう。なるほど江戸時代には信濃追分こそ中仙道の大
きな宿場として栄えていた。世之介がここで大いにたのしんだことは一代男にもみえ
る。しかし明治の開化・鉄道開通と共にさびれて、私の行きはじめた頃には学生宿の
数軒を数えるぱかりになっていた。私は夏になると信濃追分へ行った。そこには何が
あつたろうか。浅間の噴煙と白樺の森があった。尾崎咢堂の息・行輝氏とその家族や
その頃Swiftの訳業に忙しかった中野好夫氏らとテニスがあった。私は高等学校の学
生だったときに、やはり追分へきていた東京帝国大学の庭球部の学生と組んで、わざ
わざ岩村田まで出かけ、長野軟式庭球大会に出場して、決勝戦を争ったりした。要す
るに追分の生活は、夏休みというものであった。

そしてその夏休みが終りにちかづき、長くのびた白いすすきの穂に赤とんぼの飛びは
じめる頃、私は「さようなら、あまりに短かかりしわれらの夏のきらめきよ!」とい
うフランス語の詩句を覚えた。私のよんでいたのは、マルクス主義の本ばかりではな
かったからである。後年夏を軽井沢ですごしていたある女友達が、このBaudelaireの
一句を突然呟いたときに、私は大いに懐旧の情に誘われ、プロヴァンス語の諺言を以
て彼女に応じたことがある。それはこういう文句だ、
L’amour fa passa lou tem, e lou tem fa passa l’amour

これを日本語に写して、惚れれば早く時が経ち、経てば情も過ぎ去るというべきか。
私はこれを南仏はニ−スの茶酒亭の壁にみた。もとより夏の軽井沢などは、碧空海痒
の豪奢にくらべれば、まるで質素な田舎暮しにすぎない。またこの頃の軽井沢には、
堀(辰雄)さんがいた。私はその冷酷なほど強固な意志と強情な生活態度に感心してい
たようである。しかしとりまきの詩人の感傷主義にははき気を催していた。「慟哭」
という言葉の流行った時代である。私は涙もろい文学を好まない。

しかし軽井沢は「あまりに短かかりし夏」のことであって、それ以上のものではな
い。もちろん私は一年の大部分を東京ですごしたのである。東京ではカロッサやリル
ケやヘルマン・.ヘッセのほんやく全集の流行していた時代だ。そういうものをよみ
ながら戦争支持を口にする青年に出会うことは、稀でなかった。私は彼らを名づけて
戯れに「星菫派」といったことがある。本多秋五さんはその文章を「一九四六文学的
考察」のなかにみつけて、「星菫派」はおまえたち自身ではないかというわけだ。し
かしそれは出たらめというものである。本多さんにとっては、帝国主義戦争を帝国主
義戦争としてみるかみないかということが、戦争中の青年の態度をわけるときに、わ
け方の要点とはならないのだろうか。しかし話をラテン語に移そう。それを私は軽井
沢で覚えたのではなく、東京で覚えた。




ラテン語


私がラテン語を覚えたのは、戦争に反対だったからではなく、電車が混んでいたか
らである。その頃私の住んでいた家から勤め先の病院までは、片道一時間半かかっ
た。しかも電車が混んでいたので、本を拡げてよむことができない。さればといって
毎日往復三時間を何もしないで電車の天井だけをみつめていたのでは退屈である。そ
こで私はamo, amas, amatと唱え、Regina dat Julia rosamいうような意味のないこ
とを唱えて退屈をまぎらせることにした。それを一年間つづけているうちに
Macmillan’s Shorter Latin Courseという重宝な本の上下二巻を丸暗記する結果と
なった。そこで私は東大の文学部のラテン語講読という授業に出席して、神田盾夫先
生のVergiliusやCiceroをきくことにしたのである。そのとき生徒は三人、今都立大
学の教授三宅徳嘉さんと学生一人と私であった。そのうちにいくさが終わって、私の
ラテン語学習も終った。中村真一郎は「文学的考察」にPetroniusを引いている。し
かしPetroniusは少くとも私には――察するに中村にも、むずかしすぎる。文学には
fictionを活用することもあるというだけの話だろう。文芸批評家はその程度のこと
を心得た上で、感心したり、けなしたりした方がいい。博学? 冗談ではない。僧侶
ならばいざ知らず、文士が博学だったことなどめったにないではないか。いわんやわ
れわれは文士にさえもなっていなかったのだ。

しかし私はどうして文学に興味をもちだしたのだろうか。文士になる気は毛頭なかっ
た。多分文章に興味をもったからだろう。また多分詩に興味をもったからかも知れな
い。私は「万葉集」と共に育った。その理由は、自分の家にそのほかの文学書がな
かったからであり、そのほかの本を買う金もなかったからである。いくらか本を買う
金ができたときに、――それはまた同時に本を借りる方法がみつかったときでもあっ
たが、私は日本の抒情詩からはじめた。斎藤茂吉は父の同級生であった。私はアララ
ギをよみ、子規をよみ、実朝をよみ、後には新古今集をよんだ。それから勅撰集を
降って、あらためて明治以後にも及んだ。日本語は美しい。それは自然科学とは全く
ちがう世界に私を誘うのに充分なほど美しかった。しかし私は自然科学を仕事にしよ
うと思っていた。

私が遂にラテン文学をよむに到らなかったことはまえにいった通りだが、私はいくら
かフランス文学をよむようになった。私の文学の世界は、日本の抒情詩の世界からラ
テン的精神の世界に拡大した。文学は私にとっても単に感じるものではなくまた同時
にそのなかで考えるものになったといってもよいだろう。私が文学にまじめな興味を
もちはじめたのは、そのときからである。しかしそのとき、いくさは進展し、日本語
の現代文学は、ものをまじめに考えるには、あまりに漠然としたことばに溢れてい
た。私は昔の日本語の本と、手に入るかぎりの西洋の現代文学をよむほかはなかっ
た。両大戦間のフランスの二大文芸雑誌、N・R・FとEuropeをよんだのは、そのとき
のことである。

しかし私はフランス語で生活したことがなかった。これは奇妙なことだが、日本的現
実の一つのあらわれだろう。いくさのあとで、フランス語の世界に暮してみると、そ
の奇妙さが強く感じられた。私はフランス文学研究、または研究と世間でいわれるも
のをやる代りに、フランス語を覚えることにした。またその国の中世の美術を見物す
ることにした。どうしてそういうことにしたかといえば、その方がおもしろくなった
からである。私がフランスで研究らしいことをしていたのは、血清学的な反応を血球
の生理・形態学の面からみるというような仕事であった。

私が興味をもつ文学は、いくさの間の勇壮な文学でもなけれぱ、いくさの後のあぶな
絵的な小説でもない。今私は文芸時評をやらないから、興味をもたぬ小説をよむこと
はほとんどない。しかしいくさの間とはちがって今では日本の現代文学のなかにもお
もしろい本がある。私は石川淳や福永武彦や中野重治や寺田透のかくものをほとんど
みんなよむし、その他の小説もよむことがある。いくさの間のようにPierre Louysの
著作を手に入るだけあつめてよむというような馬鹿なことはしないですむわけだ。

 

 

金枝篇


「この人たちの眼には、日本の文化程度は、《欧羅巴と比較するよりはアフリカ西海
岸と比較すべきものが多々ある》とみえた。それはそうであるかもしれないが、そう
いう人自身が、身をヨーロッパ文化の立場において、少しも疑っていない」と本多秋
五さんはかいた。

この人たちとは、中村真一郎・福永武彦および私のことである。われわれは日本の文
化の特定の現象は「欧羅巴と比較するよりはアフリカの西海岸と比較すべきものが
多々ある」と考えていた。しかし総じて日本の文化一般の水準をアフリカ西海岸と比
較したこともないし、比較するのが適当だと考えたこともない。ところが本多さん
は、「日本の文化程度」として日本の文化一般をさすようにかいている。戦後文学史
と称してこういう出たらめを書くのは不都合だろうと私は思う。


 日本の文化の特定の時期の特定の現象とは何か。いうまでもなく明治以降、殊に満
州事変以降、また殊に太平洋戦争以降の天皇を生神とするたてまえ、およびそのたて
まえにたつすべての言論.制度等である。天皇を生神とするたてまえは、神道に備っ
ているが、神道は一種の原始的宗教である。ところが原始的宗教を扱うためには、特
別の学問的方法がある。その学問にはまた資料集成の文献があり、いちばん有名なも
のの一つはスコットランドの学者Sir James-George Frazerが一八九〇年に著した
「金枝篇」という本である。そのなかに生神様としての天皇をアフリカ西海岸の部族
の生神に比較して論じたところがある。学問的に生神を扱うとすれば、もはや欧羅巴
に生神である君主がいなくなって久しい以上、欧羅巴と比較するよりはアフリカと比
鮫せざるをえないのである、(私は「金枝篇」のなかでの日本の天皇の扱いに賛成し
ないが、それは別問題である。)私はそのことを暗示して、日本の天皇制文化にはア
フリカ西海岸と比較すべき点のあることを指摘したのだ。そのとき私は天皇を生神様
としてできあがった体制のばかばかしさに呆れかえっていたが、それ以上に、その体
制のおかげで私の尊敬する友人の殺されたことに怒っていた。「金枝篇」の記述を暗
示して、ばかばかしいものをばかばかしいといったのは、そのためである。そういう
ことの全体のどこが一体、日本文化一般に対する私の評価と関係しているだろうか。
またそういうことのどこが「身を無条件にヨーロッパ文化の立場において、少しも
疑っていない」ことになるのだろうか。


 Sir James-George Frazerはもちろんヨーロッパ人である。その学問は、その意味
で、ヨーロッパの学問だといえないことはない。従ってその学問的方法を用いること
はすなわち「身をヨーロッパ文化の立場におく」ことであると仮定しよう。そこで本
多秋五さんは一体何を疑うつもりなのであろうか。本多さん自身が肺結核になったと
きに、結核菌発生からstreptmycineまで今日の結核学は主として西洋で発達したもの
だから、疑ってみる必要があるというのだろうか。しかし結核学を疑ってみるとどう
いう利益があるか。森鴎外は一九世紀の末に、西洋文化だろうと何だろうととにかく
「医学は唯一なりと信ず」といった。横光利一は二〇世紀のなかばに、西洋医学を
疑って、多分西洋医学が救うことのできたろう病のために、死んだ。問題は医学が主
として西洋で発達したか東洋で発達したかではなく、病人をなおせるかどうかであろ
う。しばらくFrazerの塁によって私が天皇生神説をやゆしたときに、日本の社会はあ
きらかに病んでいた。


 日本の文化一般についていえば、「この人たち」の一人、福永武彦は、最近「古事
記」の巧妙な現代語訳をつくった。中村真一郎は、王朝の物語について美事な一聯の
文章をかき、あつめて一巻として新潮社から出した。それもまた比較的最近のことで
ある。しかし少くとも二十代のはじめから日本文学の古典に親しみ、問題の物語を少
くとも十年間は反復熟読した後でなけれぱ、王朝の物語について中村と同じ文章は決
して書けないだろう。日本文学または日本文化に対するわれわれの理解と愛着にくら
べれば、私自身はもとより中村・福永の西洋およぴ西洋文学についての一九四六年当
時の理解などは、吹けばとぶようなものにすぎない。私もまた、いくさのあとで、ま
ず金槐集について、また定家について、能について、京都にある室町から江戸初期へ
かけての庭について書いた。――それでも「この人たち」が日本文化一般の程度をア
フリカ西海岸にくらべて考えていた、というばかげた想像がどうしても可能だろう
か。しかもそう想像した上で、本多秋五さんは、「それはそうであるかもしれない」
と書くのである。


本多さんはもちろん最近のアフリカ考古学の発展や黒人アフリカ固有の文化の研究の
進み方をみて、またおそらくはBasil Davidsonの文章などもよんだ上で、黒人アフリ
カの「文化程度」は存外高かったと考えているのだろう。私はその方面のことに詳し
くない。しかしそれにしても、日本が江戸時代の末までに展開してきた文化の高さ
は、アフリカ西海岸とはくらべものにならぬほど高いだろうということを、私は一度
も疑ったことはないし、今も疑っていない。「それはそうであるかもしれない」など
ということはない。「それはそうでない」のだ。


しかし本多さんのいう「日本の文化程度」とは一体何を意味するのか。まさか「白樺
派の文学」によって日本の文化のいちばん高いところが代表されるわけでもあるま
い。本多さんが風呂に入ってどんな日本文化に思いをひそめているか、私の知ったこ
とではない。文芸批評家の真価はこれを浮世風呂の談論または瞑想によってはかるの
ではなく、文章によってはかる。日本の文化のどこをもっとも貴しとするか、その理
由が何かを、それなりにはっきりさせようとしたのは、われわれであって、本多さん
ではない。いくさのまえの日本の大衆の問題である天皇制そのものを論じたのはわれ
われであり、マルクス主義を宗教としてうけとったのは、本多さんである。マルクス
主義という西洋思想をふりかざし、生神様を拝む「日本の現実」をはなれ、「身を無
条件にヨーロッパ文化の立場において、少しも疑っていな」かったのは、われわれで
はなくて、本多さん自身であろう。「それはそうであるかもしれない」のではなく、
それはそうなのだ。英語の芝居ならばこういうところである。
But Honda Shugo is an honourable critic !

 

 

いくさと人々



 私はここでいくさと身近かな人々を語る。私の古い友だちは、中村真一郎と福永武
彦だけではなかった。今ブリュッセルに居る窪田啓作がその頃上海にいた。それから
原田義人や白井健三郎。また森有正と吉田秀和。私は森さんから思想とは何かという
ことについて、吉田さんから音楽を通じて古典とは何かということについて大いに啓
発された。私がフランス語の文学のおもしろさをはじめて知ったのは、渡辺一夫先生
のおかげであり、英文学のおもしろさを知ったのはE・H・Normanさんのおかげであ
る。

また戦後私が日本語の散文について多くを学んだ石川淳や中野重治もいる。現代文学
はこういう作家のおかげで、文学になっているのである。

私の友人のなかに矢内原伊作がいるが、私はまだ矢内原忠雄先生には直接おめにか
かったことはない。しかし高等学校の学生として授業をきいたことはある。先生は駒
場の教場で陸海軍大臣が現役軍人でなければならぬという点に日本の議会政治の癌が
あるといわれた。多数党が内閣をつくる。もしその内閣が陸軍の気に入らなければ、
陸軍は軍部大臣を出さない。陸軍大臣のいない内閣はなりたたぬから、組閣は流れ
る。別の内閣が計劃される。結局陸軍ののぞむとおりの内閣だけが成立する……そう
いう話のあとで、われわれ学生のなかの一人が、それでは議会が制度を変えて軍部大
臣を現役にかぎらぬということにしたらどうなるでしょうか、と質問した。すると矢
内原先生は、言下に、しかししずかな声で、もしそうすれば、陸軍は機関銃をもって
議会を占領するでしょうといわれた。さすがに学生は一瞬しんとなった。私はその時
間を今でも忘れない。ニ・ニ六事件の雪の日の記憶は、まだ鮮かであった。日本の
ファッシズムは一直線に破めつに向って進んでいた。

また私は杢太郎・太田正雄先生の講義をきいたこともある。いくさはすでにたけなわ
であった。しかし太田先生はいくさの騒ぎのなかでも全く学問そのものに没頭して居
られるようにみえた。私は先生のまわりにある独特の雰囲気を感じた。その雰囲気と
は学問と孤独の雰囲気としかいいようのないものである。本郷の大学を卒業し、病院
で仕事をはじめた私は、医者の召集のために人手が足りなかったので、やがて病院の
一部屋に泊りこみ、ねむっていないときにはたえず全力を揮って仕事をすることにし
た。あるとき看護婦が、私が病院の廊下を歩くのがむやみに早いといったことがあ
る。ゆっくり歩けばそれだけ時間が失われるからだ、と私は答えた。

文学的自伝のために記憶の断片を集めるとすれば、私はおそらくいくさの後のことに
ついてもっと想出しておくべきだったろう。私がものを書いて世間に示すようになっ
たのは、いくさのあとのことだからである。しかし「群像」の中島さんは待っている
し、私は註文の長さの文章をすでに書きつくしてしまった。ここに触れなかったこと
のすべては、また他日触れる機会があるだろうということにしておきたい。
(1959.10)

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