個人的加藤周一論のためのエスキース by oha



・まえがき
・第1章 加藤周一との出会い
・第2章 いままでの「加藤周一論」
・第3章 加藤の批判者たち または戦争に就て
・第4章 政治的立場と「九条の会」
・第5章 文学・美術論
・第6章 日本文化論
・第7章 加藤周一の誤謬?
・第8章 加藤周一の生活と意見
・あとがき
・追記

*なお、本文を私自身の旧稿加藤の著作からの長大な引用と区別する(後者は歴然としていて区別するまでもないが)ために、色分けした。一応脱稿したあと単純な誤変換、脱字の訂正を除き、大幅に追加したものも区別した。


まえがき


私はいま(2014.3.29)、フィレンツェへの短い旅から帰ってきたところである。西欧留学時代の加藤周一が、のちに結婚したヒルダ夫人と出会ったかもしれない美術館やシエナも訪れた。時差ボケもあり、またそもそも本来のボケが始まっているので、酸欠状態にあるようだ。そんなとき、ふと精神が奇妙に高揚することがある。アドレナリンが溢出している感じなのだ。

かもがわ出版が「私にとっての加藤周一」という本を出したとき(2009)、一般人に原稿募集したことがあった。当時の私には文章を書く用意がなかった。(別に忙しかったわけではないが) いま突然、加藤周一と私自身のことを書く気になったのは、自分でも不思議なくらいだ。あるいは私の女友達(加藤が、よく使っていた、人によっては嫌味に聞こえる表現だ)が、私に「読んでばかりでなく、ちょっと書いてみたら?」と言ってくれたのが きっかけになったのかもしれない。

だが、そもそも私は長い文章を書いたことがない。勿論、本を書いた経験もない。だからこの文章がどこまでの長さになるか、全く見当もつかない。

いま日本人大学生の約半分が本をまったく読まないと聞く。だから、この文章が万一活字になっても 紙の無駄使いにしかなるまい。私はとうの昔から名声欲はなくしている。金銭欲もあまりなく、食欲は昔と比べ衰えたが、なんとかある。性欲は・・・おいおい何の話だ?

私は読書が好きな人間である。加藤周一は「読む時間が多すぎて、書く時間が少なすぎる」と言ったことがある。それなのに、あれだけ大量な文章を書いた加藤は、一体どういう生活をしていたのか。加藤自身が2回離婚し、3回結婚したとかなんとか言っているが、本ばかり読んでいれば夫婦のコミュニケーションは少なくなるはずだろう。私はとくにヒルダ夫人との離婚は、まだ幼いほどの年齢の彼女を日本に連れてきたのに、あまりかまってあげなかったのが原因ではないかと睨んでいる。子供が出来なかったのも勿論あるだろうが。

しかし、そのおかげと言ってはなんだが、私達には加藤の書いた膨大な文章が残された。それに比べて「加藤周一論」は、驚くほど少ない。丸山真男が言ったように、加藤ほど守備範囲が広い知識人は日本に存在せず、包括的に論じることは誰にとっても無理なのだ。知識も教養も文才もない私の如きが、ジタバタしても始まらないのは百も承知。この文章も駄文の域を出まい。もとより自費出版する気もないが、ネットの時代は、こういうスタイルで書くことを可能にしてくれた。

孫正義は、10年後には紙の本はなくなると予言しているそうだ。フィレンツェの博物館で、私はルネサンス当時の稀覯本を見た。おそらくいまから20年後には本というものもあったのだよ、ということになるのかもしれない。この文章が数バイトほどの形で残っても、誰の迷惑にもなるまい。

また脱線してしまった。本来怠惰な人間である私が書ける文章は、こういうスタイルでしかないのかもしれない。ならば学者のようにではなく、気ままな雑文として、加藤を論じ、私自身を語るのも許されるかなとも思う。いや、許されるかな、などと気兼ねする必要もあるまい。一人の想像上の読者に語りかけるつもりで書くのは気楽な作業だ。私は机に向かってキーボードを打つほど勤勉ではないが、iPhoneのアプリでもあるsimplenoteは、パソコンでもスマホでも書けてweb保存してくれる。思いつくまま書くには、もってこいの手段だ。寝ころんで書いてもいい。ところで加藤は本を寝ころんで読んでいたと、どこかで聞いたような気がするが。




第1章 加藤周一との出会い



加藤の『三題噺』に出会ったのは、私が18歳のとき(1966)である。私にとって加藤周一初体験であった。学生時代、ある寮で先輩がこの本を私にくれたのだ。彼は今健在ならローマで暮らしているはずだ。ことに衝撃を受けたのは「あとがき」の文体であった。

本篇の3っは、石川丈山についての「詩仙堂志」、一休宗純についての「狂雲森春雨」、富永仲基についての「仲基後語」であり、3篇の成立を語って、加藤自らの身辺に及ぶ。

3っの人生を、日常的・官能的・知的人生とし、相互に還元できないから、全体の総題を「非還元性」としてもよいと言い、irreductibiliteというフランス語を、カッコに入れる。

第一に、第二に、と列挙し、たとえば、「遂げ得なかった私の望みは三つあり、三つしかなかった。」と断定する。当時の月評家の「小説にするより伝記にしたほうがよかろう」という批評には、抑々その評家は原資料にあたったことがないのだろう、ではなく、ないのである、と書く。なんという知的自信。

それら全てに私は驚嘆した。それまでに、こんな知的にカッコイイ文章を読んだことがなかったからである。若い私は京都にひとり旅をし、西欧に遊んで、加藤風を気どったりもした。その後、加藤の書いたもの、加藤について書かれたもののほとんど全てを読んだ。一時期離れていたこともあったが、晩年の加藤の動きは、追いかけた。

京都でのある会で、私は耳が遠くなっている加藤の横に立ち、話しかけたことがある。加藤は、後退した髪の、ひたいの部分で聴いていた!私は、脳細胞が聴いているような錯覚に陥った。そのひたいの残像は私の中でいまも消えていない。

また別の会では、私の若干生意気な質問に、数分に亘って懇切に(と思った)答えてくださったこともある。その話の中身は、全くわからなかった。私が極度に緊張してしまったからである。水村美苗も言うように、こういう巨人にはあまり近づかず、ただ文章を読んでいるほうが賢明だと思う。

と、ここまで書いてきて、加藤の文章には、こういうダラダラした部分は、ひとつもないことに思いあたる。簡潔で明晰な文章。何回読みなおしても新たな感動がある。ふつう疲れていると眠くなるのが読書だが、加藤のものを読むと逆に醒めてしまう。桑原武夫も言ったように「彼は人を酔わしめることがない。人を醒まそうとする。」我が人生で影響を受けた師の1人とする所以である。(ほかに2人ほどいるのだが、それは別の話だ。)

つまり私は一生のかなりの時間、加藤の”おっかけ”であった。非公式のホームページを作ったり、加藤ML(メーリングリストのことだ)を主宰したこともあった。それなりに楽しい時間でもあった。だからというわけでもないが、趣味趣向は加藤と似ている。外国語は英独仏語以外は、ほとんど知らない(言うまでもなく加藤のレベルではないが)。アジアやアフリカにあまり興味が持てなかったことは残念に思うが、加藤の影響だ(スミマセン)。テニスも、そこそこに今でもやっている。しかし加藤は若い頃、英国かどこかでプロとシングルスをやって、もう少しで勝ちそうだったと書いていたはずだ。やれやれ、趣味趣向が似ているとはいえレベルは違いすぎる。私との共通点は、女好きだったことぐらいか。



第2章 いままでの「加藤周一論」について



加藤周一論は少ないと書いたが、海老坂武や鷲巣力があるではないかと言うむきもあろう。ことに鷲巣の書いたものは、長い間加藤と接しただけあって読ませる。加藤自選集10巻が岩波書店から出たとき(2009−10)私はいくつかの短い感想を書いた。

第1巻については

歴史的人物を称ぶには敬称を省くのが敬意を表する所以だと思う」(p196)。太田正雄にそうした加藤に倣い、私も向後加藤に対して敬称を省くことにしよう。

本巻におさめられた初期の文章には、後年の加藤自身が「青年客気の文章の誇張・力み・衒いに辟易」(p192)している。しかし私は加藤が芥川について言ったように「衒学を遺憾としない」(p214)つもりだ。またときに「シンガポール陥落と配給のさつまいもをたたえる愚鈍な歌をつくらせる者、つくる者、読む者の世界を私はホッテントットの風俗を眺めるように時々眺めていた」(p160)などという問題発言すらある。

本巻の特典の第1は、編年体であり、通読することで加藤の仕事の源泉が見えてくることである。「木下杢太郎の方法」(1949)という文章。ここに加藤独自の文学史の構想が述べられる。さらに文学、科学、芸術、要するに文化のあらゆる領域に広がる精神の働きの萌芽が見出せる。この文章は加藤自身の方法序説といえよう。この年あたりから徐々に加藤の文章は円熟し、明晰かつ淀みない後年のスタイルになる。

特典の第2は、単行本未収で本人も忘れていたという「天皇制について」(1946)という一文の収録である。これは同年の「天皇制を論ず」に見られる講座派定番風の狭隘な歴史観より、ずっと単純明快なものだ。それというのも女性誌に書かれたものだからで、理性と勇気と反抗の精神を女性に期待し鼓舞したものである。荒井作之助という筆名は、追分の農民の名前からとったという。加藤は「問題は天皇制で天皇ではない」と書くが、これはどうか。天皇が残れば天皇制も死なないはずだろう。

第2巻について

この巻で気がついたのは「私文学論」(1955)に、はやくも加藤の後年の日本美術論の骨子が書かれていることだ。日本的なものは、墨画の枯淡でも、禅の哲学でも、陰翳礼賛でもなく、第1に写実主義であり、第2に一種の装飾的傾向である、とする。

圧倒的な迫力は、やはり「戦争と知識人」(1959)である。「日本文学史序説」の出発点といっていい論考だが、こういう一節がある。

「田辺哲学とは要するに弁証法的「浮世風呂」哲学である。」

なんとも痛烈な皮肉だ。この件りを読むにつけ、「チベットのモーッアルト」などと、似非アカデミズムの用語を駆使して読者を煙にまき、麻原彰晃に親和感を示し、いままた京都学派の哲学を持ち上げている学者の事に思いをはせた次第である。



第3巻について

この自選集を読む喜びの1つは、鷲巣力の解説を読むことである。いままで編集者に徹して、文章を綴ることを控えてきた鷲巣が満を持して書く文章は、読み応えのあるものだ。

加藤周一はいつ加藤周一になったか、言い換えれば加藤の文体はいつ完成されたか、と問うて、鷲巣はUBC(カナダのブリティッシュ・コロンビア大学)時代だと言う。その意見に私も賛成する。凛とした美しい文体は、たしかに「三題噺」後書の時期に確立したのだ。その前では、気負いと衒学趣味が目立つ。その後には、揺るぎない自信が溢れる、簡にして要を得た文章が出現するのだ。

本巻では、はやくも「源氏物語絵巻について」で、遺作ともいえる「日本文化における時間と空間」の発想が現れていることも、注目に値する。


第4巻について

1968年が入った本巻の鷲巣の解説には、2っ問題点がある。

第1は、「言葉と戦車」での加藤の「やがてソ連の指導層には大きな変化が生じるかもしれない」との予想について「予見が当たった」(p427)としていることである。加藤自身、のちにソ連解体を予測出来なかったことを正直に認めているのだから、これは過大評価であろう。

第2は、中国論。60年代日本の対中国外交姿勢についての加藤のコメントは一貫して道義的に正しかったのは事実である。しかしその後の中国の動き、ことに文革については、訪中団に加わって中国政府のプロパガンダを鵜呑みにした観察結果が報告されただけだった。加藤の書いたものに「大躍進」の犠牲も、紅衛兵の知識人つるしあげも、言及はなかった。これをもって「炯眼」(p428)とするのは、間違いであろう。もっとも編者が解説で著者を批判することは稀だろうが。

たしかに加藤は「プラハの春」に象徴的な「民主主義的社会主義」を夢見て生涯をおくった。それだけに社会主義全般に点数が甘かったといえよう


第6巻について

感想2っ。1つ目は「文芸時評」(1977)についての鷲巣氏の解説(p434)についてである。「上下2回の時評を、ひとつの作品のみで、あるいはひとりの作家だけで満たす」ことは、必ずしも加藤の独創ではない。その数年前、朝日新聞の同じ欄で、石川淳が始めたことであり、加藤はその延長線上にあったにすぎない。

2つ目は、本巻で、私がはじめて読んだ単行本未収録の「山中人陂b 〈ホロコースト〉について」(朝日ジャーナル 1979・4・6)についてである。この文章を拾い上げてくれたことを鷲巣氏に感謝したい。この文章は、1978年に西欧で放映されたアメリカTV映画「ホロコースト」についてのことで、西独では放映に反対があったが、首相みずからが放映を決定したり、フランスやオーストリアでは、番組の前に大臣が異例の演説をしたことなどを書く。

そしてその後に加藤は言う。「私は「ホロコースト」の日本での反響には興味をもたない。」と。興味をもつのは、たとえばNHKが南京虐殺の大河ドラマを、またたとえばTV映画「特高」をつくったとして、その反応はどうだろうか、ということだ、と。まことに興味深い言い方ではある。


第7巻について

加藤の後年の日本文化の空間・時間論は、本書のあたりから、はっきりと形を取り始めたことがわかる。具体的には1984年の講演「日本社会・文化の基本的特徴」だ。

本巻で、私が初めて読んだのが「河野夫妻の想い出」(1986)である。河野與一夫妻が、ヴァンクーヴァー在住の加藤を訪れたときに、公園で和服姿の河野が、現地のギリシャ出身のカナダ人に、現代ギリシャ語で話しかけて、そのカナダ人にびっくりされた逸話。また箱根で加藤の運転する車が、制限速度を超えて警察に捕まったとき、河野先生の気品を感じた警察官が、罰金をとらず丁寧に敬礼したというところ。

まさに加藤の面目躍如のユーモア溢れる記述である。未読の文章を読む歓びは大きいが、もうこれからは、こういう発見は少なくなるだろうと思うと、いかにも寂しい。


第8巻について

ほとんどすべて再読、三読の文章だが、あらためて斎藤茂吉についてのものが面白かった。

加藤が書く評伝は、大部分がその人物に共感し、ほとんど自身を語るようなものが多いのだが、茂吉については違う。たとえば茂吉がヴェネツィアでものした句を引用し、その西洋理解が絶望的に浅薄であることを「おそらく彼は彼自身が何も理解していないということさえも理解していなかった」と書く。痛烈無残な皮肉だ。

また茂吉が戦争讃美に終始したことについて、「戦争が終った後にも、みずからの誤りを悟らなかったという点で、彼の場合は、ほとんど壮観である」と書く。

かくも罵倒する茂吉に、加藤が最晩年まで興味をもっていたのはなぜか。つまりは、大方の日本人がそうであるようなものを、茂吉は典型的にもっていた、と加藤が考えていたからだろう。

第10巻について

本書の解説で、鷲巣氏は、加藤のカトリック入信について、こう書いている。

<愛してやまなかった家族がカトリックであるとき、自分ひとりが無宗教を貫けば「妹も困るだろう」。母ヲリ子がもし生きていれば積極的に入信を勧め、入信しなければひどく悲しんだだろう。「自分は無宗教者」であるが「妥協主義者」であり「相対主義者」でもある。しかもカトリックにたいする 共感は十分にある。家族愛に篤い加藤は、何もわざわざ母を悲しませ、妹を困らせることはしたくない、と考えたに違いない。

加藤のカトリック入信という事実を、驚きをもって受けとめる人も少なからずいるだろう。『羊の歌』あとがき(岩波書店1968)には「宗教 は神仏のいずれも信ぜず」という立場を明らかにしているからである。「神仏を信じない」ということばには、生きる勇気を与えられた人も少なくない にちがいない。それゆえに加藤の入信を「意外な行動」だとか「変節」だと感じる人がいることも想像はつく。

だが、私は「意外」だとも「変節」だとも思わない。加藤の行動に、むしろ加藤の一貫性と加藤の世界を感じる。加藤の「理の世界」と「情の世界」 の接点に、あるいは「公人としての加藤」と「私人としての加藤」の接点に「カトリック入信」が用意されていたのである。>

私も、この説明に同感するものだ。そして本巻の「辻邦生・キケロー・死」(1999)には、加藤本人の文章がある。キケロは「もし私の霊魂不滅説が誤っているとすれば、それはそれで結構だ」というのだ。「生きているかぎり、私は私にとってかくも優しいこの《誤り》を奪われることに抵抗しつづけるだろう」と。さらに加藤は書く。「これは科学的知識ではない。しかし科学的知識と矛盾はしない。」要するに「外部世界の構造の認識と、人間内部の心理的必要」(「神はどこにいるのか」:夕陽妄語2001)は、別次元の話だということだ。

本巻末尾の、著作一覧の詳細さ(矢野昌邦編)には、脱帽する。これを見ると、単行本未発表の作品が、発表されたものと、ほぼ同量あることがわかる。全集として出してもらえると嬉しいが。

いま(2014)改めて思うのだが、平凡社は晩年期の加藤周一著作集を出版しそうになく、岩波全集は望むべくもない。読者がいないからだ。1970年代なら売れただろう。当時は知識に飢えた学生がいた。私自身は、医科歯科系の大学に入っていたが、教養学部2年間があった。これは旧制高校のようなもので(勿論レベルは違うが) 私の友人達の中では、サルトルやレーニンやハイデッカーやプルーストを原語で読んでいる人もいた。私はいまでもそうだが浅学非才だからとうてい出来なかったが、その雰囲気は好きだった。出版物の内容は随分変わったのだ。でも司馬遼太郎や塩野七生は売れているから、まだまだ希望はあるだろう。

そういうわけで(どういうわけだ?)、そうそう版権のことを書きたい。加藤周一の未発表の文章を立命館大学が、いずれネットで公表してくれることは嬉しい限りである。知的情報は好事家の独占や、版権によって阻害されるべきではなく、万人に共有されるべきだと思うからだ。Googleがやっている、世界中の図書館のデジタル化は素晴らしいと思う。いまの文筆家が生きていけなくなるという反論はわかる。電子図書はある程度有料にすればいい。

また、鷲巣の「加藤周一を読む」(2011)については

「自選集」の解説に加筆したら3倍の分量になったという。記述は包括的で周到であり、挿入された図版のいくつか(とくにブリュッセルの美術館にある「死んだ小鳥をもつ少女」というあまり知られていない作品の写真は初めて見た。本書は加藤評伝の、絶後ではないかもしれないが空前の作である。

細かい瑕疵をあげつらうことはやめたい。が、1っだけ私見を述べたい。それはほかでもない加藤の棺に入れたという3冊の本のことである。その選択について鷲巣は「矢島翠氏の見識に脱帽する」(p364)と書いている。私は必ずしも賛成しない。

「フランス語版聖書」(もちろんエルサレム版だろうが)と「岩波文庫版論語」(1冊本ということなら仕方ないだろう)には異存はない。問題は「ドイツ語版カント実践理性批判」である。「加藤の思想に響き合う、愛読していた古典」という点で、そぐわない気がする。ドイツ語に拘るなら、加藤のかつての枕頭の書「ウィトゲンシュタインTractatus Logico-philosophicus」がよりふさわしいが、もっとふさわしいのが「渋江抽斎」だと思うからだ。

死後発見されたノート、ことに「日記」が公けになったとき、また新たなる加藤論が誰かによって書かれることは間違いないだろう。すでに「日記」によれば1941.12.8に加藤は新橋演舞場にはいなかったらしいことが明らかにされている。「羊の歌」はどこまで創作なのか。


鷲巣以外の本としては、「現代思想 臨時増刊号 総特集:加藤周一」(2009)について

「加藤周一が亡くなって、大方の追悼文が出揃ったところで、いよいよ本格的な論考が出始めたという印象だ。加藤は生前、怨嗟か賞賛かの両極端を受けたが、まともな評伝はなかったといえる。本書の一部は、その嚆矢となるだろう。

内容は、玉石混交。桜井均、山本唯人、花森重行の3者は、端正な文章で上の部。鷲巣力、成田龍一がそれに次ぐ。あとは、あまり感心しない。最悪は廣瀬純。こんな文章を「上質の文章こそ文学」と言った加藤が読んだら、どう思うだろうか。

竹内好の2編と加藤の2編を並べた構成も疑問。竹内の文章がひどすぎる。これで竹内を代表するのは、ちょっと故人に酷である。

岩波は加藤の「自選集」を出すらしい。しかし、いままでの加藤著作集が、ほとんどすべて本人の選によるものだから、もうやめたほうがいい。むしろ第三者の客観的な選択が必要だ。著作集に収められなかった文章でも、良いものもあり、加藤の評価を貶めそうなものもある。その全貌を提供する「丸山真男集」のような編年体の全集なら価値があろう。

伝記も期待される。「羊の歌」は、いずれにせよ自己正当化の試みである。周到な調査による客観的な伝記の現れる日が待ちどおしい。回想録としては、矢島翠のものが、どうしてもほしいところだ。


また『私にとっての加藤周一』(白沙会編:2010)について

加藤周一が岩波・平凡社などだけに書いていたら、ふつうのインテリ文化人として終わった可能性もある。京都の小さな出版社かもがわのもとめに応じて講演集、なかんずく居酒屋での無名の人々との交わりを記録したことで、加藤の人柄の温かさが文字を通して伝わることになった。この経緯の意味は大きい。

本書は没後1年、白沙会メンバーを中心に、全国に公募した一般人それぞれにとっての加藤観を集めたものだ。なかには文章の稚拙そのまま訂正せず掲載されているものもある。それはそれで学生文集のような感を呈している。一面識もない一般人の質問に悪びれないどころか、懇切に回答している姿は感動的だ。

白沙会の活動を日時まで詳細に年表としたのは快挙である。たどってゆくと、加藤が海外から戻るや否や、あるいは講演会のあとすぐに、メンバーたちと長時間にわたって屈託なく語り合っていたことがわかる。たしかに疲れを知らぬ脳細胞の持ち主であった。同時に次のエピソードは、加藤の身体能力も並々ならぬものだったことを物語る。84歳になんなんとする加藤が、メンバーの待つ軽井沢の宿に白い乗用車の運転席であらわれ、キィーッとブレーキ音を立ててバックし、車どめにピタリと停めたというテクニックである。

詳細な日時を記録した白沙会の様子、せっかくだから1つ気づいたことを指摘しておきたい。38ページの上の写真の日付が、1992年11月27日になっている(この日時、加藤はローマにいた)。1991年の間違いだろう。


『知の巨匠 加藤周一』(菅野昭正編:2011)については、


菅野昭正、大江健三郎、姜尚中、高階秀爾、池澤夏樹、海老坂武、山崎剛太郎、清水徹がそれぞれの加藤周一を語っている。一読して、この中で一番加藤の著作を読んでいるのは清水徹だと思った。海老坂は加藤論があるのに、あまり読んでいない。

さて加藤のカトリック受信については、鷲巣の説明が説得的だと考えていた。しかし、本書からは、もう2つの意見があることを知る。

1つ目は、姜尚中がある人から聞いたという加藤自身の言葉である。「われわれの住んでいるのはニュートン的世界である。しかし死ねば、非ニュートン的世界であって、これは神に委ねるしかない」というものだ。なるほど加藤らしい。

もう1つは、海老坂の考えである。加藤は「超越」という言葉が好きで、自分を超えるものに憧れをもっていた、というものだ。たしかに。もしこの世を超えるものがなければ、世界に意味はあるだろうか。

(2014)海老坂については失礼なことを書いたと思う。2013年に海老坂が加藤論(岩波新書)を書いたときには、全部を読んでいたに違いない。海老坂は加藤の訳したサルトルの「文学とは何か」について、ほとんど1ページに1つの誤訳があると、ほとんどあざわらうように書いていたと思う。あるいはもっとか。加藤の留学時代(1952)の仕事だから完璧ではありえない。やっつけ仕事とまではいえまいが。海老坂はのちに自分の新訳を出して(1998)加藤訳と対照させている。フランス語については加藤は海老坂にはかなわないかもしれない。ところでサルトル学者の海老坂は加藤の「サルトル論」(1984)について何か言っているのだろうか。私は寡聞にして知らない。加藤はこの本について、親友の中村真一郎からしか反応がなかったと書いていた。海老坂には、加藤のサルトル論への感想を聞きたい気もする。

・「凡人会」が編集した「ひとりでいいんです」が出たとき(2012)には

西に白沙会あれば、東に凡人会あり。まことに、この人達は加藤周一という稀有な人物とまぢかに接して、幸福な時間を過ごしたと思う。羨ましい限りである。

本書の大半は、凡人会と加藤との雑談だが、うまく編集してある。戦争、芸術、時事問題、加藤個人の歴史など、話題は多岐に亙る。大部分はかつて聞いたことだが、初めて聞いた話もある。

九条改憲に反対する加藤は非戦論者のように見られるかもしれないが、戦争についてはこんな言葉もある。「日本軍が全面的に悪いとか、戦争に行った人がすべて犯罪人という見かたはまちがっています。たとえば従軍慰安婦問題のように、組織的におこなった犯罪が問題なのです。」また核兵器についても、大江のように全面廃絶の「悲願」のようなことは言わない。サルトルと共に中国の核武装はやむを得ないという立場であり、核保有の不均衡が問題という現実主義である。

チベット問題(加藤はティベットと表記する)は、私自身、加藤の講演会で質問を紙に書いたが、取り上げられなかったことがあるので興味深く読んだ。結論は、ティベットも台湾も、中国の内政問題だということである。

また、社会主義はソ連型が失敗しただけであり、そのほかの社会主義は復権すると言い、マルクス(資本主義分析)もそのうち再評価されると予言し、いま研究すれば最先端になれると冗談を言う。

その加藤も晩年には、さすがに記憶間違い、事実誤認があった。聖書を語ってヘブライ語にだけ拘っている。言及されているヨハネ伝も含めて新約聖書はもちろんギリシャ語である。


また鷲巣の「加藤周一という生き方」(2012)という本についても書いた。

本書が加藤論として画期的なのは、数篇の書き下ろし、とりわけ第2章「相聞の詩歌を詠むとき 」にある。

加藤は自らの私生活、ことに配偶者について、あまり語らなかった。その全容が分かる日は来そうもないが、重要な伝記的事実のいくつかが明らかにされている。

たとえば1972年という年は、ヒルダ夫人との間で愛が冷め、「かすがい」の意味からか、ヴィーンの孤児院から養子をとり、ソーニャと名付けた年である。

だが一方、矢島翠との熱愛が燃え上がったのも、同じ時期である。

そういう事実を知りたいのは、下世話な覗き趣味からではない。加藤の短篇連作集『幻想薔薇都市』と詩歌集『薔薇譜』が、同じ時期に編まれた(1973、1975)背景が、明らかになるからである。鷲巣は「薔薇 」に、矢島翠への讃歌の含意をみるという。卓見である。

ところで、私はヒルダ夫人が哀れで仕方ない。加藤に「空気」のように扱われ、日本では友達もほとんどなく、50歳の誕生日を前に亡くなったという。加藤に彼女の寂しさへの慰めは、あったのだろうか?」

どの感想文も、いま(2014)読んでみて、我ながら、随分エラソウな文体だと思う。加藤の文体の下手な模倣が見え隠れする。気恥ずかしい限りだ。物真似としては「コロッケ」の域にはとても達してない。




第3章 加藤の批判者たち または戦争に就て




ここからは「コロッケ」は辞めて気ままな文章に戻ろうと思う。(といいながら表題を真似してしまった)。参照文献もあまり細かくは明らかにしない。事実関係も私の記憶に基づく。間違いが多いと思うが私は学者ではない。誰が何を言おうが馬耳東風だ。

記憶に基づくと書いたが、余談ながら、記憶力を開発するには、何回も同じものを読むことがいいと思う。出来れば暗記するほどに。読書百遍。それも幼少のうちがいい。ユダヤ人の聖書(と書いたがユダヤ人は旧約とはいわない)や論語。しかしいまの日本にはそれに該当するものがないと言ったのも加藤である。音楽家に頭が良い人が多いのは、暗譜のためだろう。私は「羊の歌」は朝日ジャーナルの連載を同時期に読んで以来、英訳も含めて少なくとも5回は読んでいる。だからどこにどんなことが書いてあったかは覚えていた。いた、と過去形にしたのは近頃ボケがすすんでいるからだ。

コンピューターの時代となった今は、たしかに便利になったが、キーボードでは漢字を忘れるばかり。Google検索は安易だが、頭脳の活性化のためには、たまには1日かけても、あたまから絞り出す作業をするべきかと思う。(かく言う私は、友人からは「検索小僧」と揶揄されているが)

こんなに脱線していたら切りがないから、この辺で元に戻ろう。

さて、私が非力を承知で加藤論を書くとすれば(その気はいまのところないが)、どこに重点を置くべきだろうかと考えた。鷲巣のものは批判ではなく共感である。それはそれでよい。余人がしていないことの1つは、客観的に加藤の仕事はどう評価されてきたか、またこれからどう評価されるだろうか、という点だ。

加藤には勿論多くの友人がいて協賛者がいたが、同時にたくさんの反対者がいた。その数は少なくない。なかには蛇蝎の如く酷評している人もいる。悪魔の思想、売国奴とさえ言われた。悪質な罵倒は除いても、ちょっと思い出すだけで、荒正人にはじまって渡部昇一、矢沢永一、西尾幹二、蓮實重彦、吉本隆明、呉智英、向井敏などの著名人の名前が挙げられよう。この人たちは今でいうネトウヨたちほど知的に劣っているとは言えない。どうして加藤は嫌われたのだろうか。(余談だが、加藤がネトウヨに暗殺されなくて良かった。危険はあったと聞く。吉本に至っては、加藤が二枚目でモテるから、嫉妬して、書くものがダメだと言っていたらしい。)

まず加藤は、ほとんど凡ゆる知識に通暁していたから、無知な文筆家を軽蔑していた。(無知な人全部という意味ではない。むしろ庶民は好きだった)。加藤の眼光の鋭さ、議論の緻密な整合性の前では、たいがいの似非知識人には反論はムリだった。一例をあげれば、百科事典についての論議の相手に山本夏彦がいた。加藤の論理は鋭く、やられた山本は気の毒なほどだった。横綱に前頭が負けるのは当たり前だが。

また、ある座談会では美術史の高階秀爾をコテンパンにやっつけている。
(その細かい内容についは憶えていない。高階に対して美術作品をちゃんと見ていたのかと貶されたような内容だったと思う。残念ながらこの座談会はどの著作集にも入っていない。)高階は一般的に見て優秀な学者だろう。だが美術について素人のはずの加藤が激しく高階の発言を否定していたのだ。たいがいの人なら、この野郎!と思っても不思議ではない。(高階がそう思ったろうという意味ではない)

さらにナショナリズムの問題がある。生半可に外国に暮らすと日本主義者になる。典型的には三島由紀夫である。彼はちょっと洋行しただけで日の丸国旗に感涙して天皇崇拝者となった。加藤は殆ど外国と日本で半々の暮らしを長くした。そして日本のあらゆる不合理な現象を批判し続けた。愛すればこそだ。(もとより愛国心は強要されるべきものではない)。それが外国かぶれと見なされ顰蹙を買ったのだ。

「新しい教科書を作る会」のメンバーの中には、会長のようなどうしようもない人物もいるが、この人がなぜ、と思うような優れた人たちがいる。芳賀徹、田中英道らである。西尾幹二の「国民の歴史」には、加藤が論文で取り上げた仏像とほぼ同じ画像もある。なにが違うのか。肝心なことは、加藤の見方は日本至上主義ではないことだ。洋の東西を問わず、いいものはいいと考えるだけだ。よく加藤が言っていたのは富士山のことである。富士山が遠くから見て美しいのは認めよう(近くでは汚いと聞く。私は1度も登ったことがない)。しかし世界一か?

「美は客観的だが、美人は主観的だ」というのは加藤のセリフだと巷間に流布されたことがある。私は出典を探したことがあるが見当たらなかった。いかにも加藤風の言い方ではある。要するに、美人の好みは ひとそれぞれだという意味か。もし皆がブラピやアンジーに集中したら世の中困るだろう。アバタもえくぼというではないか。(ちょっと意味は違ったっけ?)

富士山は世界中の誰にとっても美しいかどうかは疑わしい。なかにはユングフラウが1番という人もいるだろう。また私事にわたるが(というかこの文章自体、私事との混交であるが)、私は昨今日本のイタリア料理は世界一だと言いたい誘惑にかられることがある。しかし自粛している。本場のイタリアのマンマの料理が世界で1番だというイタリア人がたくさんいるからだ。たんに私の胃袋や食の趣味が、イタリア人とは違うのだろう。

閑話休題。加藤は西洋崇拝者ではなく、いわんや国粋主義者でもなかった。が、日本の文学や美術品の優れた価値を伝え続けた。劣等感も優越感もなかった。

私自身は国粋主義者になるには、あまりに日本に暮らしすぎた。いまでも短い海外旅行から帰ると日本の良さを再認識する。治安の良さ、文明の便利さ、時間の正確さ、食べ物が洗練されていて美味しいこと、ウォシュレット、店員も公務員も親切なこと、遺失物が見つかり戻ってくること、若者も老人も傍若無人な人が少なく紳士淑女であること、
災害時の冷静な対応と助け合いの精神、などなど挙げていけば切りがない。

しかし日本という国が世界で1番だと思ったことはない。推測するに加藤も同じようであったのではないか。たとえば、悲しいのは、古いものをどんどん壊すことだ。創造力といえば聞こえはいい。東京はそれでもいい。だが京都は悲惨だ。私は若い頃、まだ木造建築や町家が多かった京都を見た。その美しさは、イタリアの古都にも比べることができた。だがその記憶があるだけに、いまの京都に出かける気には、ほとんどならない。加藤は京都保存のため尽力した。無力であったのは残念である。


まだほかにも、書類に何にでもハンコを要求し、少し違っているとダメだしされること(サインではなぜダメなのか?)、難民を含めた移民を受け入れないこと、インドネシアからの看護婦に厳しい日本語の漢字を課す愚劣な官僚主義(ひらがなでルビをふればいいだけだ)、2重国籍を認めないことなどなど。
ストライキについては微妙だ。私は日本にほとんどないことが嬉しいが、加藤は一貫して労働組合の力不足を言っていた。もうひとつ。相撲の四股名(もとは醜名と書いたらしい。醜いという意味ではなく、醜男のように逞しいということだ。それがシコとかけて変わった)のことを書く。外国人力士は日本名を名乗らされる。これは大東亜共栄圏の発想(創氏改名)と同じとはいえないか。つまり日本名で日本語を喋れば国籍は問わず日本人として認めるよ、という態度である。大方はそんなつもりはないと言うだろうが、私には気になることだ。

加藤の指摘した政治問題を加えてゆけば、不合理なことのほうが利点より多い気さえする。加藤はそれらを完膚なきまでに指摘した。自分の国の悪口を言われるのは、誰にとっても面白くないはずだ。加藤が「そんなに嫌なら外国に行けばいい」と言われたとしても無理はない。




第4章 政治的立場と「九条の会」



加藤が、健筆をふるったのは主に冷戦の時代である。「世界」「展望」「朝日ジャーナル」などの当時進歩的といわれた雑誌の巻頭に出ていたのが加藤の論文だ。肩書は「評論家」である。どこどこの教授という肩書は、ほとんどなかった(上智大や立命館大のときはあったかもしれない)が、加藤の文章は凡百の学者たちの文章の中で屹立していた。だから巻頭論文だったのだろう。当時は、ソ連社会主義と米国資本主義(あるいは自由主義)が対立していた時代だ。私は同時代の加藤の論文を読むのに興奮していた。問題整理の手際の見事さには、震えるほど感動した。

加藤は左翼系の代表的知識人だったが、共産党については「赤旗」は読むがシンパに過ぎなかった。(因みに、かもがわ出版はもっと共産党寄りのはずだ)。「赤旗」を読んでいたのは、政治的バランス感覚であろう。大新聞はおおむね米国の御用新聞だったからだ。加藤はバランスをとるために、英字紙や赤旗を読めと言っていた。なお、当時は左翼でなければ人間にあらず、とまでは言わないが、そんな雰囲気もあった。小田実は北朝鮮を礼賛していたこともある。状況は、いまと全く逆である。私自身は一時期左翼に共感したが、どっちつかずで、周囲からは日和見と見られていた。私の高校時代の同窓の1人は、東大の入試に最優秀に近い(ほとんど満点だったと本人から聞いた)成績で入ったが、当時の全共闘運動に参加した。マルクスを原語で読み、世界一の研究者になってみせると息巻いていた。彼からは私の読んでいた加藤周一の「朝日ジャーナル」の記事などは、新聞の宣伝広告のようなものだと言われたこともある。その当時、右翼でしかも論理的であった論客は、ある意味で勇気があったと思う。隔世の感がある。

加藤はカナダの大学に赴任したとき、米国を選ばなかったのは、原爆を落とすような国には行きたくなかったからだと、のちの講演会で語ったことがある。(もっとも加藤は、のちに米国の大学で教えている) その後の米国は、ソ連共産主義や9.11のあとのテロリズムとの戦いで、圧倒的な力をもって覇権を続けたことは周知の通り。またイランや、中南米、ヴィエトナム(加藤表記)でCIAを使った政権転覆、近くは根拠のない理由でイラクに侵攻した。unilatelarismつまり一国主義である。原爆をふくめて無辜の民を殺戮して、イラク、アフガニスタンの場合、死者の数さえ数えなかったのは、大国米国である。パックス・アメリカーナとは、よく言ったものだ。パックス・ロマーナのほうがまだカワイイ。親族を殺されたイスラムの民が復讐したいと考えても当然ではないか。

当時も今も、戦後日本は米国の属国のような存在だから、寄らば大樹の陰だ。加藤がバランス感覚から、あるいは無辜の民をおもんぱかって、米国の外交政策を批判したのは、道義的に正しい。

だが加藤は嫌米主義ではなく、米国の良い点を賛美した。米国の外交政策を激しく批判するチョムスキーすら許す余裕の精神を称えた。私が思うに、どの国にも、いいやつもいれば悪いやつもいる。いっしょくたにすることを「超一般化」という。

そしてソ聯(加藤はソ連と書かず旧字体を使った)の脅威はないと論じた。日本は、当時、北海道にソ連軍が侵攻してくるとと言って、ある軍事評論家がgeopolitics 地政学の名のもとに論陣を張ったことがある。ほんとうに、そうだったのか? たしかにキューバ危機はあった。だが加藤は、第2次大戦で大量の死者を出し、経済的にも余裕がないという理由で、ソ連には侵略の意図も気力もないはずで、ソ連脅威説は間違っていると論じた。私はこれは正しかったと思っている。(もちろん岡崎久彦なら反対するだろうが)

いま中国の軍事拡張、北朝鮮のテポドン、韓国の領土問題などで、同じような脅威が語られている。ほんとうかどうかは知らないが、過剰に反応するのは愚かしい。その点、日本はかつてより、遥かに大人になった。願わくはそうあり続けるように。

北朝鮮はなぜ核開発をし、中国は軍備拡大するのだろうか。私は米国が問答無用でテロリスト国家をたたいたのを見て、自分たちもやられると考えたからだと思う。たとえば米国債を1番持っている中国が、橋本龍太郎首相が言ったように「売りたい誘惑に駆られる」と発言したとしよう。米国は軍事攻撃も辞さないのではないか。北朝鮮を世間では「瀬戸際政策 brinkmanship」という。サダム・フセインのようになりたくないから、窮鼠猫を噛んでいるのだ。まあABCD包囲網にあったかつての日本も同じだったが。

九条は、少なくともその精神は丸腰ということだ。(実質は相当な軍隊があること言うまでもない。)

晩年の加藤は、若い頃の政治運動への直接不参加から一転し、九条堅持を語って全国を行脚した。(60年安保のときカナダに移った加藤は、逃げたのだと揶揄された。デモに参加せず傍観している自分を自嘲的に書いた「羊の歌」の一節を思い出す)

改憲阻止ではなく、九条だけを取り上げたのは、わかりやすいからである。講演行脚の姿は感動的だった。竹村健一や、みのもんた が1回数百万円の講演料を取っていた時期に、10万円もしくは無料で応じていたと聞く。(白沙会や凡人会がどのくらい謝礼していたかは知らない。多額でなかったことは間違いないだろう。)

「九条の会」を立ち上げた理由は、周知のように親友を太平洋戦争で失った無念からだ。加藤より優秀だったかもしれない前途有為な中西や原田が死んだのだ。どんな理由があったにせよ、軍国日本は正気の沙汰ではなかった。いままた太平洋戦争にも勝機があったとか、なかには良い軍人もいたとかいうフィクションや映画が流行している。(工藤美代子という物書きもいる。). ひとりひとりの問題ではない。戦争という事態そのものが問題なのだ。あまりにも犠牲が大きすぎる、ことに第2次大戦からは無辜の民の。パリ不戦協定の精神は、どこにいったのか。米軍は誤爆でどのくらいの人間を殺したのか。加藤は言わなかったが、私は、まともな戦争犯罪法廷があれば、ブッシュやパウエルこそが裁かれるべきではないかと思う。だが世の中は、常に勝てば官軍である。

もう1つ。加藤は戦争に反対する理由に、歴史的建造物の破壊を挙げた。ルネサンス期ローマはドイツ人傭兵隊の略奪でほとんど廃墟と化した (Sacco di Romaという 1527)。だからルネサンスの建物はほとんどなくて、バロック風の建造物が多い街なのだ。フィレンツェが同じとき略奪に会わなくてルネサンスの街並みを今に残しているのは奇跡としかいいようがない。かのナチスですらもフィレンツェの橋のいくつかを破壊したにとどまった。

いま安倍政権は改憲の力を得たように見える。将来、軍事的緊張が不幸にして高まれば、一挙に戦争になる可能性もある。そのとき加藤の主張は、それみたことかと蔑まれるだろうか。

21世紀は戦争のない世界になるはずだった。ところが中東に、ロシア周辺に、南シナ海に、発火点は散在している。それでも日本は九条を守るべきか。
個人的に私は加藤に賛成する。もう歳をとったから、命も惜しくないという気持ちもある。丸腰で負けても、その歴史は崇高な事件として記憶されるだろう、古代アテネがそうであったように。あるいは、そうならないかもしれない。弱肉強食の世の中に戻り、人類はついに滅びるのかもしれない。そうなったとしたら、人類は愚かだった、ということに過ぎない。恐竜の時代より短い時代を生きたということだ。悠久に近い宇宙の歴史からすれば、小さな小さなエピソードではないか。



第5章 文学・美術論



さて、いよいよ加藤のメインの領域に入る。しかしこの分野では、余りに私は非力過ぎる。この駄文は、周辺を巡るだけにしよう。僭越ながら、加藤は小説家としては2流、翻訳家としては3流だと思う。だが文化文明論の評論家としては、超1流だった。

なにをエラそうなことを言う、おまえさんはどうなんだ、と言われそうだが、いまは1億総評論家の時代である。ド素人が、イチローや白鵬を論じているではないか。私もその一人である。

加藤の全著作の中で、何が1番だと思うかと問われれば、私は躊躇なく『日本文学史序説』を挙げる。学生時代に「朝日ジャーナル」に連載していた毎週号が待ち切れないほど楽しみだった。しかもその時、同時に連載していたのが堀田善衛の『ゴヤ』であった。たしかに私は友人の言ったように、新聞を見るとき宣伝広告のほうに先に眼が行く性癖があるようだ。

その『序説』は、次のように始まる。

日本文学の特徴について


西洋や中国の文学と比較すると、日本文学には、いくつかの著しい特徴がある。その特徴は、第一に、文化全体のなかでの文学の役割に係り、第二に、その歴史的発展の型に係っている。さらに第三には、言語とその表記法、第四に、文学の社会的背景、第五に、その世界観的背景に係る。そういう特徴相互の関係を検討すれば、時代を一貫して日本文学という現象に固有の構造(の少なくとも一つの模型)が、あきらかになるだろう。その構造の枠組のなかで、時代と共に変ってきた日本文学の歴史は、秩序だてて叙述されるにちがいない。同時的構造を仮定することは、通時的発展のなかに秩序を見つけるための前提である。


文学の役割

日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。たとえば『万葉集』は同時代の仏教のどんな理論的著述よりも、奈良時代の人間のものの考え方をはるかに明瞭にあらわしていたといえるだろう。摂関時代の宮廷文化は、高度に洗練された和歌や物語を生みだしたが、独創的な哲学の体系をつくり出しはしなかった。鎌倉仏教は、おそらく徳川時代の儒学の一部分と共に、日本史の例外である。しかし法然や道元の宗教哲学は、その後体系として完成されたのではないし、仁斎や徂徠の古学は、その後の思想家に大きな影響をあたえたけれども、より抽象的であり包括的な思惟を生みだしたのではない。日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。

他方、日本人の感覚的世界は、抽象的な音楽においてよりも、主として造形美術、殊に具体的な工芸的作品に表現された。たとえば摂関時代の芸術家は、仏像彫刻と絵巻物に、そのおどろくべき独創性を発揮していた。しかし声明や雅楽に、日本人の独創がどの程度まで加えられていたかは疑わしい。たしかに室町時代は能の、徳川時代は浄瑠璃の音楽をつくったが、一度つくり出された音楽的様式のその後の発展は、わずかなものにすぎなかった。室町時代に水墨画をとり入れ、狩野派を発展させ、一方では南画に到り、他方では大和絵の系統を融合させながら、琳派の絢爛たる開花に及び、遂に浮世絵木版を生んだ絵画の歴史とはくらべることができないだろう。日本の文化は、ここでも、楽音という人工的な素材の組合せにより構造的な秩序をつくり出すことよりも、日常眼にふれるところの花や松や人物を描き、工芸的な日用品を美的に洗練することに優れていたのである。

文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文学の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。中世の文化の中心は、文学でも、工芸的美術でもなく、宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、「ミステリー」はその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた。同時代の日本では、仏教の盛時にさえも、美術が仏教とばかりではなく、世俗的な文学とむすびつき、音楽も宗教的儀式とよりは、劇や世俗的な歌謡の言葉と連なっていた。日本の文学は、少なくともある程度まで、西洋の哲学の役割を荷い(思想の主要な表現手段)、同時に、西洋の場合とはくらべものにならないほど大きな影響を美術にあたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたように音楽さえもみずからの僕としていたのである。日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで代表する。

もちろん中国では、文学と美術(殊に絵画)との関係が書を介して、しばしば密接不可分であった。音楽もまた文学から独立して西洋でのような器楽的発展を遂げたのではない。そのかぎりでは、日中文化の間に、一方から他方への影響を別にして考えても、少なくとも表面上の類似がめだつ。中国はすぐれて文学の国であった。しかし二つの文化が決定的にちがうのは、中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。朱子学的綜合は、日本では到底成立するはずがなかった。ということは、また、徳川時代のはじめに幕府の公式の教学として採用された宋学が、一世紀足らずの間に日本化されたことからも知られる。日本化の内容は、まさに包括的体系の分解であり、形而上学的世界観の実践倫理と政治学への還元ということであった。

中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。


歴史的発展の型



日本で書かれた文学の歴史は、少なくとも八世紀までさかのぼる。もっと古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は少ない。サンスクリットの文学は、今日まで生きのびなかった。今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興斯(一四・五世紀)前後にさかのぼるにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。

しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代にうけつがれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった。新旧が交替するのではなく、新が旧につけ加えられる。たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに八世紀に三一音綴の短歌であった。一七世紀以後もう一つの有力な形式として俳句がつけ加えられ、二〇世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つであることをやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。しかし奈良時代においてさえも、旋頭歌は代表的な形式ではなかった。徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮かにあらわれていた。一五世紀以来の能・狂言に一七世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに二〇世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。

同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少なくともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」――このような美の理想は、そのまま時代と共にほろび去ったのではなく、次の時代にうけつがれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。

このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性(歴史的一貫性)が著しい。と同時に、新しいものが付加されてゆくから、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、他に例が少ないし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたようにみえる。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、激しく対決して、一方が敗れなければならない。しかし旧に新を加えるときには、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく楯の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

文化のあらゆる領域にこのような歴史的発展の型が成立した理由は何であったか。その問題に十分に答えることは、ここではできない。しかし文学に即していえば、その言語的・社会的・世界観的背景にあらわれたある種の「二重構造」が、少なくともさしあたりの答えをあたえることになるだろう。

二カ国語の併用と表記法とを離れて、日本語そのものについていえば、その多くの特徴のなかに、殊に文学作品の性質と密接に関連していると思われるものがある。

第一に、日本語の文は、その話手と聞手との関係が決定する具体的な状況と、密接に関係しているということ。たとえば極度に発達した敬語の体系は、話手と聞手の社会的関係に直接に呼応している。またたとえば、主語が話手である場合、またあきらかに聞手である場合に、主語の省略されることも多い。文中の主語が明示されるかされないかは、その文が話される具体的な状況によるのである。文の構造、すなわち言葉の秩序が、具体的で特殊な状況に超越し、あらゆる場合に普遍的に通用しようとする傾向は、中国語とくらべても、西洋語とくらべても、日本語の場合、著しく制限されている。そういう言葉の性質は、おそらく、その場で話が通じることに重点をおき、話の内容の普遍性(それは文の構造の普遍性と重なっている)に重点をおかない文化と、切り離しては考えることができないだろう。その文化のなかでは、二人の人間が言葉を用いずに解りあうことが理想とされたのであり、主語の省略の極限は、遂に、文そのものの省略にまで到ったのである。またおそらく文の構造が特殊な状況に超越しない言語上の習慣的価値が状況に超越しない文化的傾向とも、照応している。たとえば酒の上の言葉は、水に流すことができる。その場合の酒は、特定の生理、心理的作用を及ぼす毒物ではなくて、社会的状況の特殊性の象徴である。過去もまた水に流すことができる。今日の状況はもはや過去の状況ではないからである。かくして日本語を駆使した文学者たちは、状況の特殊性の叙述に、その精力を傾けることになるはずだろう。その典型的な例は、短詩型の抒情詩である。おそらく世界中でもっとも短い詩、わずか一七音綴のなかに、俳諧の達人たちは、一瞬の感覚的状況を見事に固定することができた。

第二、日本語の語順が、修飾句を名詞のまえにおき、動詞(とその否定の語)を最後におくということ。すなわち日本語の文は部分からはじまって、全体に及ぶので、その逆ではない。そういう構造は、大きくみて、中国語や西洋語と正反対であり、しかもたとえば中国大陸の影響を脱して作られた日本の大建築の構造にも反映しているのである。徳川時代初期の大名屋敷の平面図は、あきらかに、大きな空間を小空間に分割したものではなく、部屋をつないでゆくうちに自ら全体ができあがったとしか考えられないものである。その状あたかも建増しの繰返しのようにみえる。日本の建築家は、中国や西洋の建築家とは逆に、部分から出発して全体に到ろうとしたので、語順の特徴は、空間への日本式接近法にもあらわれている、といえるだろう。またたとえば丸山真男氏も指摘したように、日本の神話にあらわれた時間は、始めもなく終りもないものである。そこでは現在が、始めあり終りある歴史的な時間の全体の構造のなかに、位置づけられるのではなく、現在(部分)のかぎりない継起が、自ら時間の全体となる。歴史的時間の全体の構造というものはない。しかもそういう時間の表象は、決して神話のなかにのみ現れたのではなく、その後の時代を一貫して根本的には変らなかった。すなわち時間に対する日本式接近法も、全体から部分へではなく、部分から全体への方向をとったということができる。比喩的にいえば、日本語の語順は、日本文化の語順にほかならない。したがって日本文学にその特徴があらわれていることは当然である。

ほとんどすべての散文作品は、少数の例外を除いて、多かれ少なかれ部分の細かいところに遊び、全体の構造を考慮することが少ない。平安朝の物語はその典型的な例である。たとえば『宇津保物語』の各章はほとんど独立していて、その相互の連関は極めて薄い。『源氏物語』には、大きくみて、全体の構造がないとはいえないが、その全体との関連において部分が描かれてというよりも、部分がそれ自身の独立した興味のために語られている場合が、圧倒的に多いのである。部分の描写は、全体のために十分だが、必ずしも必要ではない。またたとえば『今昔物語』は多くの短い説話をあつめ、説話を大まかに分類している。しかしその分類以外に全体をまとめるどのようなすじ立ても、指導的な思想もない。ただその個別的な挿話のなかのいくつかが、実に生々として、独立の短篇小説の傑作として読めるのである。

このような日本の散文は、作品全体の構造をいくつかの型に分けて規則化した唐宋の文章や、ほとんど幾何学的な全体の秩序に極度に意識的であったフランスの一七・八世紀の古典主義文学と、まさに対極をなしている。同じことは、また、中国の説話集から材料を採り、それを書きなおした日本の説話集の書きなおし部分を検討することによっても知られるだろう。たとえば『日本霊異記』と『法苑珠林』の同じ説話の比較。『日本霊異記』は、部分の叙述において、中国の原典よりも、詳細で、具体的で、生々としている。『法苑珠林』は話のすじを語るのに、日本の書きなおしよりも、簡潔で、要領を得ている。すなわち『日本霊異記』と『法苑珠林』の背後には、根本的に異なる傾向をもった二つの文化が働いていたと察せられるのである。


社会的背景

日本文学に著しい特徴の一つは、その求心的傾向である。ほとんどすべての作者は、大都会に住み、読者も同じ大都会の住民であって、作品の題材は多くの場合に都会生活である。たしかに地方には口伝えの民謡や民話があった。しかしそういう民謡民話が集められ、記録されたのは都会においてである。たとえば八世紀に編纂された『古事記』、殊に『風土記』は、多くの地方伝説や民謡を含んでいたが、そういう官撰の記録が、中央政府の命令によって作られたことはいうまでもない。地方を舞台にした多くの話を収録している説話集についても、『日本霊異記』から『今昔物語』を通って、「古今著聞集」や『沙石集』に到るまで、同じことがいえるだろう。

中国では日本でのように一時代の文化が一つの都会に集中してはいなかった。大陸の文人は、国中を旅して、各地の風物を詠じている。たとえば杜甫の場合に典型的なように、唐の詩人はその吟懐を必ずしも長安の街頭に得たのではない。摂関時代の歌人が、行ってみたこともない地方の名所・歌枕を、歌につくりなしていたのとは大いに異なる。欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりもさらに徹底していた。欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。近代になっても、独・伊語の文学的活動が、一つの大都会に集中したことは一度もないといってよいだろう。パリを中心に発達した近代フランス文学は、その意味では、欧州文学のなかにおける例外である。しかしそのフランスの場合にさえも、プロヴァンスはその地方語による大詩人ミストラルを生んだ。日本の場合には、人麿以来斎藤茂吉に到るまで、地方語による大詩人はあらわれなかった。

文学が大都会に集中する傾向は、九世紀以来、京都において徹底した。律令制権力は中央政府に集中していたけれども、奈良はまだ、経済的にも文化的にも大都会ではなかった。政府と大寺院が大陸文化の輸入の中心であったにすぎない。経済が大都会を支えるに足るところまで成長し、政治的権力の独占に文化的活動の独占が伴うようになったのは、平安時代以後である。少なくとも文学に関するかぎり、その中心としての京都の位置は、一七世紀に商業的中心としての大坂が台頭するまで、いかなる地方都市の活動によっても挑戦されなかった。一八世紀以後江戸文学がさかんになったが、そのとき文化の中心は、京都・大坂から京都・江戸へ移ったので、京都がその中心であることをやめたわけではない。そして明治以後の東京中心時代。今日なお著作家の圧倒的多数は、東京とその周辺に住み、出版社の大部分も東京に集中している。ただ読者層だけが全国的に拡がったのは、文学作品のみならず、ほとんどすべての商品について、全国的な市場が成立するようになったからである。東京が方向を決め、全国の地方がそれに従う。その意味で、文化、殊にここでは文学の求心的傾向は、江戸時代におけるよりも、今日においてさらに著しいのである。

文学活動の中心であった大都会で、文学と係りをもった社会的階層は時代によって交替した。今かりに文学作品の創作・享受のいずれかに関与する階層を文学的階層とよぶとすれば、文学的階層の時代による交替は、日本の場合が西洋に似ていて、中国の場合と対照的である。中国の文学的階層は、「士」であった。「士」は唐・宋の昔から清朝の末まで一貫して、ほとんどそのまま高等教育を受けた中国人と同義語であり、官吏または元官吏であって、彼らだけが文学的言語を読み且つ書くことができたのである。中国の詩文は、「士」の事業であり、彼らのみの事業であった。そのことは、古典文学の形式の想像を絶した強い伝統と、その伝統に反して新しい形式や主題を発見することの困難を意味する。

日本の文学的階層は、奈良時代にはまだ充分に固定していなかった。『万葉集』は、主として七・八世紀の歌を集めているが、その作者は、貴族ばかりでなく、僧侶・農民・兵士などであり、また無名の民衆でもあった。しかしおよそ一〇〇年の後、一〇世紀のはじめの『古今集』では、歌人の圧倒的多数が、九世紀の貴族と僧侶であった。平安時代には独占的な文学的階層が成立する。しかしそのことは、先にも触れたように、京都の支配層以外のところに、口伝えの文学がなかった、ということを意味しない。おそらくは豊富な伝説や民話や民謡があった。その片鱗は、貴族社会が収集し記録した説話集の類から、今なお推量することができるのである。

文学的階層としての平安貴族には二つの特徴があった。その第一は、傑作を生みだした作者に、下級の貴族が多かったということ、その第二は、また女性が多かったということである。別の言葉でいえば、貴族権力の中心からではなく、その周辺部から、時代を代表する多くの抒情詩や物語が生みだされた。その理由を想像することは、困難ではない。下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学」ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少ないだろう。




長大な引用をした( 実は正確にはネットの、とあるサイトからパクったものだ。パクリのパクリである。だから誤字脱字があり、句読点の位置は正しくないかもしれない。確かめるのは面倒くさい。なお句読点の位置については加藤がどうすればいいかと、ほかで論じている。) のは、加藤をよく知らない人には文章の魅力を、よく知っている人には改めてその素晴らしさを伝えたかったからだ。私にとっては何度聴いても美しい音楽のようだ。
(ここで音楽の喩えを出したのには説明が要るかもしれない。加藤の文章は「数学者のかいた美しい数式のようだ」と言ったのは作曲家の小倉朗である。加藤も美を定義して2ツあるとした。我々のよく使う意味での美と、もう1ツは幾何学的秩序の美しさである。比喩的にいえば加藤の文体はショパンやリストではなく、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」である。)かの江藤淳の『漱石とその時代』や小林秀雄の『本居宣長』は、本文と漱石・宣長の引用が半分半分くらいである。そうか。両方とも版権が切れてたか(ところで引用の部分は稿料に入るのだろうか。)まあ、引用は必要な限りということで・・・。

『序説』はカナダの大学生に日本文学を教えた内容を、後に精緻にしたものだ。また後述する予定の晩年の著作、日本文化の空間と時間論は、数十年にわたる思考の産物である。

ところで加藤は論文に、かなりの量の自註をつける趣味があった。それを読むのも楽しみだったが『序説』には註がない。おそらく本文と註を行き来する煩瑣を避けたのではないか。電子書籍の場合はリンクで飛ぶことが出来るが。


加藤の文章のあとで、何かを書くのは、いかにも無謀ではあるが、蛮勇をふるって続けてみよう。

『序説』の画期的意義については、すでに諸家の解説がある。通史を書けるだけでも、ほかにはドナルド・キーンと小西甚一がいるくらいだ。小西甚一といえば、私は大学受験のラジオ講座の古文担当の小西の時間が楽しみだった。テキストは古文だけではなく、英語、数学も入っていた。小西は授業中、脱線して、ほかの講師の頁を開かせて、キーツだったか、テニスンだったかの英詞の解説までしていたのを思い出す。

こんな雑談をした理由は、どうやら日本文学を論じるには、日本語だけやっていればいいとは言えまいと悟ったからだ。ドナルド・キーンについては言うまでもない。(あ、彼は日本人になったんだっけ。)ところでこの3人は、加藤の『序説』が出たとき鼎談し「朝日ジャーナル」に掲載されたこともあった。

『序説』は主要外国語に訳された。ということは、この本を理解できる外国人がいたということだ。加藤の文章を、そのまま外国語に移すのに、あまり苦労しなかったということだろう。勿論凡人には難しい。しかし背景知識があれば、明快なはずだ。まさに昔ボワローBoileauが言ったようにCe qui se concoit bien s'enonce clairement すなわち、良く考えられたことは、明快に表現されるはずだ。加藤がよく言っていたことだ。小林秀雄、吉本隆明、吉田健一らのクセのある文章では、そう簡単に翻訳はできまい。小林の作品を加藤は、国内消費向けといい、吉本に至っては、あれはどう訳せますかねぇと笑っていたし、「真面目な冗談」という匿名での連載エッセイで、吉本を茶化していた。吉本が加藤を嫌っていたのは事実である。また余談だが、難解な吉本の暗号のような文章を解説してくれたのは新約聖書学者の田川建三である。さすが古代ギリシャ語(コイネー)を専門としながらも、英仏独語に通じた田川である。パズルを解くような感じである。ここからは私事だが、私は青春期、聖書ことに新約学を齧ったことがある。田川の書くものは他の学者のものを圧倒していた。いわば新約学における加藤周一である。だが、あまりに他を罵倒していたから、岩波や共同訳聖書が出たときの委員会には入れてもらえなかった。いま田川は老いてなお粛々と新約聖書の全訳と膨大な訳注・解説を進めている。
ついでだが、田川は自分の昔書いた文章を、版を重ねるごとに間違いを訂正し、スミマセンを連発していた。未熟だった、間違っていたと何回も言っていた。過ちて改めざる、これを過ちという、と論語にもいう。これこそが真の学者の態度だろう。


元に戻る。そういえば、高階秀爾だったと思うが、谷崎潤一郎の文章はフランス語に訳しやすいと書いていたと思う。大谷崎は、英語学者の弟と同じく英語をよくし、ウェイリー訳の源氏物語を読んで、自らの源氏訳の参考にしている。

あらためて外国語が出来る、それも英語以外に何か最低もう一つは出来るといいなと思う次第だ。理由の一つは、日本語を知るためである。

おい、本論はどうした?と言われそう。『序説』の意義のことであった。土着的世界観とか、転換期とか、明治に断絶がなかったとか、和暦ではなく世紀で区分し、日本人の書いた漢文学から農民一揆の断片文まで含めてしまったこと、その他もろもろには、しかるべき諸家の解説もあり、何より本文を読むのが1番である。

*ネットサーフィンしていたら「文藝散歩」というサイトを見つけた。
ここには、『序説』のいわば池上彰風の解説がある。

これで『序説』を終えるのはいかにも早い。そこでナゾナゾを一つ。加藤の名文とかけて、若い女性の肌ととく。そのこころは?・・・・さわりがいい。(おソマツ)

以下『序説』から、「さわり」の一部を紹介する。(これもネットから)

 
第1章 『万葉集』の時代

憶良は大陸文学を模倣したから、わが国で独特の文学をつくったのではない。大陸文学を通じて、現実との知的距離をつくりだす術を体得したから、日本文学の地平線を拡大したのである。
 …………

赤人の劃期的意義は、彼が最初の職業歌人であったということである。赤人は何も発明しないということを発明した。すなわち「月並」の開祖である。開祖が後世の職業歌人によって崇められ、有名になったことは、少しも怪しむに足りない。赤人の劃期的意義は、彼が最初の職業歌人であったということである。赤人は何も発明しないということを発明した。すなわち「月並」の開祖である。開祖が後世の職業歌人によって崇められ、有名になったことは、少しも怪しむに足りない。

 
第2章 最初の転換期

後世の日本文化の世界観的基礎は、その淵源を奈良朝以前にまでさかのぼることができる。しかしその世界観的枠組のなかで、分化した文化現象の多くの型や傾向、世にいわれる文化的伝統の具体的な側面の大きな部分(しかしもちろん全部ではない)は、9世紀までさかのぼることができて、9世紀以前にさかのぼることはできない。その意味で、この国の文化の歴史は、奈良朝および以前の前史と、9世紀以後今日までの時期に、大別することさえできるのである。

 …………

最澄自身には手のこんだ理論的著作がないが、彼の創めた天台宗は、いわば平安時代の思想的枠組を決定したといっても過言ではないだろう。……空海以後の真言宗には、天台宗のそれに匹敵するような理論家があらわれなかった。

 

 
第4章 再び転換期

『十住心論』の空海は、体系的であり、包括的であって、抽象的な観念的秩序の建築において天才的であった。『正法眼蔵』の道元は、非体系的であり、体験的であって(一箇の体験の特殊性と非還元性)、抽象的なものから具体的なものへ、具体的なものから抽象的なものへ、いわば上下する迅速な運動において天才的であった。9世紀の空海は、外国語を駆使することで、その偉業を果したが、13世紀の道元は、外国語を通して発見した日本語の可能性を洗練することで、その新しい世界を開いたのである。

 …………

日蓮は当時の権力を憎悪したが、道元は軽蔑したのである。漁民の子が超越的信仰を武器として権力と戦い続けていたとき、天皇の親戚の子は、そもそも衆愚を相手にしない習慣に従い、山中に退いて、その超越的な思想を知的に洗練した。

 第7章 元禄文化

益軒は博物学的自然学を中心として、宋学を非体系化し、仁斎はその倫理学説を中心として、朱子学を非形而上学化した。あるいは宋学の抽象的概念を用いて、この二人の同時代人は、それぞれ自然学または人間学を作ろうとしたともいえる。外来の抽象的な形而上学、客観的であろうとする包括的な知識の体系、日常生活の実用を超えようとする「イデオロギー」が、「日本化」されてゆく方向は、ここにあきらかである。まずその心理的な主観主義への還元(蕃山)があり、自然学(益軒)あるいは倫理学(仁斎)への解体がある。やがてその史学(白石)および政治哲学(徂徠)と化した姿を、われわれはみることになるだろう。
 …………

徂徠学の影響は、大きかった。その儒学を継承した直接の弟子には、太宰春台があり、その詩文を継承した弟子には服部南郭がある。しかし殊にその学問の方法論上の発明がなかったら、おそらく18世紀前半に富永仲基の思想史的方法も成りたたなかったかもしれないし、同じ世紀の後半には本居宣長の実証主義的な文献学もありえなかったろう。

 …………

侍が戦っていたときに、「武士道」はなかった。侍がもはや戦う必要がなくなってはじめて「武士道」が生まれたのである。

 …………

「真剣勝負を知っていた宮本武蔵は、戦国武士の生き残りであり、17世紀初めの「五輪書」は、いかにして相手を殺すかということについての、実際的で技術的な教科書であった。山本常朝はおそらく真剣勝負を経験したことがなく、またその必要もない時代に生きて、いかにして自分を殺すか、という書を書いた。『五輪書』から『葉隠』への100年間は、武士の心がまえが、実践から割腹へ移った過程に他ならない。」

 …………

日本文化の生んだ「愛の死」(Liebestod)の表現のなかに、以前も以後も、近松の「道行」を抜くものはない。19世紀のドイツ人が管弦楽で表現したものを、18世紀の日本人は三味線の伴奏する言葉で表現したというべきだろう。
 …………

一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を詠ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むとみずから信じるようになったのである。
 …………

白石と西鶴は、一方が朱子学の、他方が町人と俳諧の語彙を駆使していたけれども、それぞれの世界の現実を理解しようと望む態度において、すなわち観察者としての資格において共通していた。
 …………

『葉隠』こそは、偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのは、おそらくは決して人と戦うこともなく60歳まで生きることのできた人物が、誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり、徳川体制が固定した主従関係を「下剋上」の戦国時代に投影して作りあげた死の崇高化だからである。『葉隠』は「犬死」を賛美したのである。



『序説』については、とりあえずこのあたりにしておくが、加藤は、これでも日本文学の全部を著述したわけではなく、自分の読んだ本の感想文を書いただけだと謙遜していた。

引用でも分かるように加藤の文体の特徴で著しいのは、列挙と対比である。また現代に近づくと3人を同時に取り上げるやり方が増える。私が仮に「3点座標」と呼ぶ方法である。晩年の未完の作「鴎外・茂吉・杢太郎」もその延長にある。

「文学」の概念を広げたのは、加藤である。それまでの文学といえば、文芸時評でも大学の文学部でも、小説、詩、短歌俳句の類いだった。加藤は、空海、親鸞、道元、日蓮から、白石、徂徠、昌益、仲基を通って、諭吉、大拙、丸山真男まで広げちゃったのだ。従来、思想家と言われていた人たちである。文学とは加藤の表現をうつせば「現実の特殊な相を通じてある普遍的人間的なるものを表現する言語作品」である。簡単に言えば、あらゆるジャンルの良い文章を、文学だとしたのである。加藤は朝日新聞に文芸時評を書いたとき、自らの規準で作品を選択した。この加藤の考えが定着したら、文学部の先生のほうは大変なことになる。仕事がいっきょに10倍以上になるだろうからだ。


文学の概念の拡張については、有名な国語学者時枝誠記と西尾実の対談を論じた加藤の文章が光る。国語学の重鎮たちの使う言葉の定義が曖昧な点を突いて間然するところがない。後述するつもりだが、若き加藤は、西洋の美術史家たちにも、同じ態度で筆をふるっていた。壮観と言わずして何と言うべきか。

加藤の文学論はもとより『序説』だけではない。古今東西の文学を縦横に論じた加藤ではあるが、自ら制約を課していた。読めない外国語の文学は論じないということと、あまりに多くの研究が出ている作家のものはやめておくという態度である。そもそも西洋文学論をやめて日本文学論に集中したのは、日本人が何を論じようと、西洋では評価されないという経験だ。

森有正は並みのフランス人以上にフランス語を知っていたろうが、デカルトやパスカルの研究は、フランスの学界になんの影響も与えなかったろう。(森は孤独なエッセイを残しただけだ) 阿部良雄のボードレール研究、前田陽一のパスカル研究ですらそうだ。翻訳は別だ。渡辺一夫のラブレー訳はラブレーの資料館にもある。

加藤はそういう状況をはやくに察知して、フランスを去った。日本の文学や美術を紹介する作業に集中するためである。

もうひとつ。加藤は『序説』の総論に、各論を配した。著作集に「日本文学史の定点」の名前で収められた諸稿がそれである。また加藤は評伝を作るとき、共感した人物を語りながら自らを語った。白石・仲基・秋成・鴎外・兆民らに著しく、一休・サルトルにある程度当てはまる。自分の思考法や生活がそれらの思想家に共通するものを見たからであろう。

これらについては、いまのところ私はエスキースとするにとどめる。


この辺りで美術論に入ろう。


加藤は『日本美術史序説』を書こうとして、ついに果たせなかった。カナダの大学時代から日本美術を教えていたにもかかわらずである。のちに「日本(美術)(そ)の心と形」と題された本は通史の形をとってはいるが、文学史ほどの精緻さはない。

加藤は「日本人のぼくが西洋の学生に西洋美術史を教えるんだ」とも言っていた。

加藤の美術論のなかで、1つと言われたら、私は「仏像の様式」(1966)を挙げたい。これは『芸術論集』(1967)という岩波書店の本のなかで、未発表のものとして入っていたものだ。ここまで記憶にたよって書いていた私だが、この本は懐かしく書庫から取り出してみた。1967年といえば、私は19歳である。この論文を読んだ時の感動も忘れがたい。内容を当時の私は理解できたのだろうか。たぶん半分は理解できたのではないかと思う。((言い換えれば、半分は分からなかったということだ。)いまこの本を取り出したのは、内容を忘れたからではない、大筋のところの内容は全部憶えている。
記憶といえば、『羊の歌』のことがある。私は「朝日ジャーナル』で読んでいたが、『羊の歌』か『続 羊の歌』の最後に、ヴァンクーヴァーの客舎(も加藤がよく使っていた用語だ)か自宅の窓から、外の景色をを見ながら述懐する件りがあった。とても印象深かったのだが、どういうわけか岩波新書では削除された。その雑誌を私は持っていないが忘れがたい一節である。近頃こういう昔のことは憶えているが、一昨日何を食べたかを忘れる。アルツの典型だろうが、それで私は食べたものについては、なるべくその日にブログアップするようにしている。

さて「仏像の様式」は、副題を「彫刻における現実主義の概念と、本朝仏教彫刻の様式の変化について」という。加藤は、極端なまでにカタカナ語を嫌った。「現実主義」とは、ふつうには「リアリズム」という。その「現実主義」という言葉をちゃんと定義しないことからくる混乱を加藤はまず指摘する。

加藤は、日本の美術史家はもとより、ヴォリンガーのような西洋美術史家の巨匠の言葉の定義の仕方の曖昧さを喝破する。そして日本の仏像の様式の変化を彼独自の方法で記述する。その議論の精密さに私は感嘆したのである。

加藤の方法は「彫刻の内容の普遍性と特殊性、技法の抽象性と具体性の関係」を典型的に捉える。その組み合わせは「4つあり、4つしかない。」

第一: 普遍的・抽象的 たとえばコンゴーの面
第二: 普遍的・具象的 たとえばギリシャ古典時代の神像
第三: 特殊・抽象的 たとえば中国古代の俑(よう)
第四: 特殊・具象的 たとえばドナテッロ

しかしこれは典型的な場合だ。その他の作品はそれほどはっきりはしまい。つまり程度問題。程度を測るには、縦軸に普遍・特殊の程度ををとり、横軸に抽象・具象をとれば、すべての彫刻作品がそのグラフのどこかに位置する。

そしてこれは彫刻だけではなく、人物絵画にも当てはまる、と加藤は註に記す。

第一: 普遍的・抽象的 たとえばGiotto
第二: 普遍的・具象的 たとえばRaphaelの聖母
第三: 特殊・抽象的 たとえばBosch
第四: 特殊・具象的 たとえばVan Eyck

こんな風に書いていけば、ほとんど本文を写すようなものだから、大概にするが、この方法を教えたあと、仏像をグラフのどこかにプロットすると、一度も見たこともないカナダの学生が、ひと目見てどの時代のものかがわかったというのだ。(加藤後記による)

加藤という人は、かくも、あたまの良い人なのだ。
加藤は座標軸や、ベクトルを用いて持論を展開した。またウィトゲンシュタインの「論考」のスタイルで「忠臣蔵」現象を論じていた。分析哲学の加藤への影響は大きい。

さて、この論文の話はこのくらいにして、美術作品についての雑談にうつる。現代は写真技術が発達して、驚くほど綺麗な画集が出ている。だが、写真ではわからないことが少なくとも2ツある。大きさと明るさである。細部は画集のほうがはっきりする、がともかくホンモノを見ないと絵は見たとは言えないのである。

だが有名な泰西名画は、たまに日本に来ることがあるが、行列に並んで、ほんの一瞬見えるだけだ。やはり本場に行ってホンモノを見るほかない。ところが、驚くべきは本場では最高傑作が、まことに無造作に見物客の直近に展示してあることだ。ウフィッツィでもパラディーナでも、オルセーでもそうである。さすがに昔とは違い、モナリザの周囲には綱が張られるようになった。だがどの不届き者が、ペイントを吹き付けるか知れないではないか、「アンネの日記」を破くように。その危険性に対して、安全確認はかなり杜撰だ。フィレンツェでは街のいたるところ、クーポラにまで落書きがある。そのそばには「落書きは犯罪です」とも書かれている。

加藤の師である石川淳は、本物(この場合は傑作の意味)だけを見よ、と言っていた、それも時間をかけて。私はそこまでの忍耐力はなく、むしろあまり知られていない作品で、自分に訴えかけるものを見つけるほうに愉しみを見出す。
(たとえば前述した「死んだ小鳥をもつ少女」である。これは作者不詳なのだ。)(ちなみに今回の旅の前には「ルネサンス美術館」(石鍋真澄)という大型画集を見た。図版700点、画家120人。そのうち私が知っていたのは、およそ半分だった。名作とされるものも含め、虚心坦懐に、自分に響いてくるものを待つのも面白いと思う。

加藤はNHKの取材班と世界を歩いて、「日本 こころと形」というTV番組を作った(1987)。これは明らかにケネス・クラークのBBCの番組「Civilisation」(1971)の模倣である。

加藤の番組は、ここでも西洋絵画と日本絵画を対比対照させて、私をびっくりさせた。たとえば琳派とアール・ヌーヴォーであり、カンディンスキーと禅画である。そしてもっと驚いたのはその両方に実際の交流、影響関係があったということであった。なるほど、浮世絵とフランス印象派のようなことが、ほかにもあったのだ。



第6章 日本文化論



この分野も奥が深い。加藤は、生涯を通じて日本という国の文化を問い続け、日本人とは何かを考え続けた。まずフランスから帰って書いたのが「雑種文化論」である。英仏の文化を「純粋文化」とし、わざと雑種のイヌのイメージで(と思う)日本文化を「雑種文化」とした。

後年、加藤も言ったように、この分類は、当時だからこその話だ。英仏とも、いまやイスラムや、マグレブ文化のメルティングポットと化している。あるいは、サラダボウルか。つまり純粋文化などというものは、どこにもなく、文化は常に雑種だ。フランスに至っては、フランスで生まれた人間は、みなフランス人である。日本人両親の子でも望みさえすれば。

雑種文化論は、いま歴史のエピソードとしてしか意味がない。当時の日本には、極端な国粋主義と洋化主義があった。例えば日本語を廃して、英語やフランス語にしてしまえ、という主張もあった。

加藤は両極端を取らず、雑種で行きましょう、そこに希望があると論じたのだ。その後、実際日本は雑種文化として大きく発展している。文化というものは、永遠不変ではあり得ない。

1960年代から、日本は高度経済成長し、文化も大きく様変わりした。やがて80年代のバブルがあったが、わずか10年で泡は弾けた。

その頃、思想界の流行は、全共闘の吉本隆明から、浅田彰などのニューアカデミズムの時代になっていた。柄谷行人が注目を浴びる。デリダ、ドゥールーズ、ガタリなど難解な哲学が読まれる。いずれにせよ日本では、流行の思想が次々と変わる。

余談だが、ニューアカデミズムは、「ニューアカ」と呼ばれた。カタカナ語は、カラオケ、デジカメ,パソコンなど4語が多くなり、いまはスマホ、アプリ、メアドなど3語が多い。加藤はカタカナ語を嫌がり続けた。たしかに外国生活から日本に戻って、ガラケーなどといきなり言われたら意味が分からないだろう。昔も今も日本はガラパゴスではある。私は若い友人が、本当にガラパゴス島に旅行したと聞き「あの島には、日本の携帯電話はありましたか?」と聞いたことがあるが、その冗談は通じなかった。

ニューアカの話であった。私自身は難解な文章には、ついて行けず、横文字の本だけに(自ら称して)「読書留学」していた時期もある。加藤の書くものも読まなくなった。

バブルもあってか、世の中経済の話ばかりになり、経済学の本が本屋の棚を占めるようになる。加藤は経済学関係は、ほとんど書かなかった。晩年の最終講義にマルクス主義論があるくらいだ。私は、遅ればせながら経済学の本を読みはじめ、政治の左翼右翼のように、ケインズとフリードマンの考えが交代して現れるのを見た。そしてソ連解体。梅原猛は、資本主義が勝ったのではなく、いずれ資本主義も敗れると書いた。(その後、金融危機、リーマンショックがあったが、資本主義は生き延びている。
加藤と交流のあった経済学者岩井克人は近著「経済学は何をすべきか」(2014)の中「経済学に罪あり」で、チャーチルが「民主主義」について言った名言をもじって、こう書いている。「資本主義は最悪のシステムである。ただしこれまで存在したすべての経済社会システムを除いては」。リーマン・ショックのあとに、社会主義の復活はなかった。だから我々はまだしばらくは資本主義とつきあってゆくしかないとの意味であろう。マルクスは資本主義のなれの果てが、共産主義だと予言した。これからそれが起こるのかもしれない。貧困大国アメリカで99%の大衆が1%の超富裕層に革命を起こしても不思議ではない。)

やがてコンピュータ、Windows95の時代を迎え、さらにWEBの時代が来る。20世紀も終わり、グローバル文化とソーシャルネットワークの時代が来る。私はまだ日本でFacebookが流行らないまえからのメンバーである。使用言語は英語だ。

やがて日本でもメーリングリストというものがあると知り、加藤MLを立ち上げた(2000)。そのとき私自身、加藤の書いたものを再読する。初期のMLのメールのやりとりは楽しかった。歳とった私は、若いメンバーから、たくさんの知らない事を教えてもらった。その1人は、ハンドルネームをヒコクミン、またはヒコさんと言った。なにか訳ありの感じではないか。

彼は立命館大の出身で、西川長夫の生徒だった。加藤を立命館大に呼んだのは西川だという話は、このヒコさんから聞いた。

ヒコさんは、加藤の授業も聴いたが、西川の考えに影響を受けたと語ってくれた。「国民国家論」というもので、簡単に言うと、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という本も示すように、ナポレオンのフランスからはじめて、ドイツもイタリアも日本も国民を統合するために、軍隊を始め、国歌、文化などを作り上げて行ったというものだ。この考えでゆくと、例えば日本人は桜が好きだ、というのは、明治国家成立後の神話ということになる。

加藤の文化論も、この文脈で批判されることになる。加藤は西川や浅田彰から、「結局、加藤さんは分かっていない」と陰で言われていたと聞くが、国民国家論者の考えが分からなかったわけではない。すでに小林秀雄の「本居宣長」を批評したとき(1977)、安易に奈良朝の人々を「国民」と書いた小林に加藤は「しかしそのとき「国民」はいなかった」と書いている。

加藤は国語、国文学などの考えから、日本語、日本文学という言い方に脱皮したのだが、ヒコさんたちは、さらに国境を超えて、日本語文学という考えに達していた。ヒコさんは、もう在日という言い方は、やめませんかと言っていた。彼の卒論は李良枝である。たしかに加藤の論じた文学に、在日朝鮮人作家たちも、リービ英雄も、デビット・ゾペティもなかった。村上春樹さえ評価していなかった。加藤はついにパソコン入力はしていなかった。

時代は変わったのだ。加藤は、時間/空間論を含めて、「日本文化の文法」を何度も示した。第1此岸性、第2集団主義、第3感覚的世界、第4部分主義、第5現在主義。また日本人の空間/時間意識は
「今・ここ」主義である。
 

しかしグローバル化の波の中で、日本文化も流されてしまうのではないか。加藤も70年代あたりから、日本が大きく変わったのを感じていたようだ。加藤のいう「転換期」があったのかもしれない。アーサー・ビナードとの対談(2008)で、加藤は集団主義は日本独特だと持論を語ったが、ビナードはアメリカもそうですよ、と言った。やがて日本語も滅びるのではないか、と水村美苗も書く。たしかにいま学術論文はすべて英語である。

その前から、人類学者の梅棹忠夫はローマ字オンリーに、言語学者田中克彦は漢字全廃をうたっていた。だが仮にそうなったら随分読みにくくなるのではないか。啄木の「ローマ字日記」、谷崎の「瘋癲老人日記」などは、読みにくい。
ここで、加藤が「東京日記」(1960)に書いていたことを思い出した。日本文は漢字・かな・カタカナが混じっていて美しい、アルファベットだけよりも、と。学生時代の私はこの考えを私のもう1人の人生の師に語ったことがある。ここでその人の名前を出せば、フランス人宣教師のジョルジュ・ネラン師である。ネラン師は、小林秀雄の「本居宣長」を教材にゼミを開くほどで、私より遥かに日本語に詳しかった。そのネラン師が、「そんなことないよ。欧文のほうが美しいよ。」と応えたのだ。まことに美しいものは人それぞれである。


将来、加藤の書いた日本文化の諸特徴は、意味のない言説になるのだろうか。あるいは、今日只今(2014) 政治でも経済でも起こっているように見える「逆グローバル化」の流れに向かうのだろうか。私は、グローバル化で世界がフラットになったら、随分つまらない世の中になるだろうと思う。便利にはなるかもしれないが、地方に特色がなくなるのは面白くない。

加藤を継ぐ知識人は誰だろうか。筆頭に挙げたいのは四方田犬彦だ。四方田は加藤にコロンビア大学でも会っている。しかし加藤の名前の言及はほとんどない。国境を軽々と超えて、加藤より多言語ができるポリグロットであり、多作である。文化は漫画などサブカルチャーにも詳しい。専門は映画論だが、エッセイは抜群の面白さだ。近著は「ひと皿の記憶」。100冊以上の著作がある。驚嘆すべき多作だから印刷は間違いだらけだ。

外国人の加藤研究家は、以前から多く、アドリアーナ・ボスカロ、ジャニン・ジャン、イルメラ・日地谷=キルシュネライト、ジュリー・ブロックなど枚挙に遑ない。それに近頃若く美しいマヤ・ヴォドピヴェッツも加わった。彼女はいまオランダの大学で教えていて、娘さんは日本人学校を卒業したほどの日本びいきである。しかし福島原発事故については、忌憚のない意見を表明している。そもそも平安朝文学などに関してはアメリカなどの研究家のほうが、日本人より詳しい。やがて日本文学の研究は海外が権威となるだろう。


第7章 加藤周一の誤謬?


本章は、追記である。表題は脳科学者ダマシオの「デカルトの誤謬 Descartes's error」の顰みに倣った。

加藤の頭脳は天才的と言っていいだろう。はたして天才も間違うことがあるのだろうか? イチローもエラーするのだから、多分そうなのだろう。本章で取り上げるのは、エラーだったかもしれない事どもである。

第1は1つの論文である。1967年11月の文藝春秋に出た「高まる米中戦争の足音」だ。当時、この文章を読んだことは、はっきりと憶えている(どの著作集にもない)。内容は忘れた。表題の通り、加藤は米中は戦争に入るかもしれないと書いていた。しかし幸いにしてそういうことは起こらなかった。全集が出ない限り、こういう瑕疵は葬り去られる。これを間違いとするのは酷かもしれないが。

第2は、社会主義についてである。加藤がソ連崩壊を予想出来なかったと自ら認めていたことは、すでに書いた。そのことで加藤の値打ちは下がるのかどうか。加藤が社会主義にある種の期待、夢をもっていたことは、たしかだ。ソ連を訪れたときには、無料の医療、教育、社会保障に賛嘆していたこともあった。しかし次第にソ連は期待に反する行動を取り始めた。そしてついにチェコに戦車を入れた。

 加藤はG・スタイナーが来日して対談したときも、机を叩いて、2人の罵声で周りが驚くほど頑なに社会主義の正当性を主張していた。いまソ連が解体し、社会主義は死んだように見えるが、加藤はソ連型社会主義がなくなっただけだと言っている。そうか? 私見ではその通りだと思う。加藤が夢見たのは、まさに戦車が入ったチェコの、ドゥプチェク型=プラハの春型=人間の顔をした社会主義だったのだ。資本主義社会も、いつまでもいい気になっていると大きいしっぺ返しが来ると思う。すなわちこの件についても、加藤は間違っていたとはいえない。

第3は深刻だ。加藤は森鴎外のファンであった。だが加藤は鴎外を語ったとき、脚気の問題を語らなかった。私は京都での講演会のあとの質疑応答の時間を待った。ついでながら、加藤はどんな愚問にも悪びれずに答える人である。だから、むしろ愚問がきっかけで、加藤の見事な回答が聞ける愉しみがあったようなものだ。挙手していた私にはしかし、質問の機会は訪れなかった。私はそのあとのタクシーが来るまでの私的な時間を、またも執拗に質問している若い男性のあとを待った。

 私の聞きたかったのは、当時出版されていて加藤が読んでいてもおかしくなかった「鴎外最大の悲劇」(坂内正:2001 新潮選書)のことである。
「鴎外最大の悲劇」の要点は、脚気がビタミンB1不足による病気であることがほぼ確定したのちも、軍医・鴎外がそれを否定しつづけ、ために日清・日露戦争のとき陸軍に大量の脚気患者を出してしまったことである。陸軍は白米食に拘り、日清戦争で4万、日露戦争でも25万の死者を出した。日清戦争で脚気問題を起こしたのは、じつは陸軍医務局長・石黒忠悳である。だがドイツ留学から帰国した鴎外は石黒を一貫して支持して悪びれず、死ぬまで謝罪の言葉はなかった。海軍の高木弘兼は、はやくに脚気がビタミンB1不足によるものとの論文を書いていて、海軍に悲劇はなかった。

 坂井は晩年鴎外はこのことを気にして、一種のトラウマとなっていたと論じたのだ。私は坂井の名前は出さず、ただこのような事実を加藤が書かないのはどうしてかと私的に質問した。加藤の回答は素っ気ないものだった。すべての論文に眼を通すわけにはいかないのだと。その答えは、私にはチベットは中国の内政問題だと応える響きと似ている。

 それでも私は加藤という人を否定しない。余談だが、私は元プロテニスプレイヤーが模擬試合を披露してくれるレッスンを見学したことがある。女子プロであったが、試合中彼女は凡ミスをした。ありえないスマッシュの失敗である。そのとき傍らで解説していたもう一人の先生は「これで私たちも少し希望がもてますね」と、皆を笑わせた。

同じことが加藤にも言えるのではないか。加藤でも間違うことがあるのだと。



第8章 加藤周一の生活と意見



加藤は、あれだけの分量の文章を書き、さらにそれを上回る量の本を読んだばかりでなく、たくさんの友人に恵まれて談論風発を愉しんだ。
鷲巣や江藤文夫、白沙会や凡人会などの証言がある。加藤は休みなく何時間でも、ほとんどひとりで喋っていたという。対談、座談を好み、ひとたび話が始まると、内容の方向は加藤自身が設定してリードする。終わってみると、加藤の論文のように、まとまりがあるものになる。

親しい友の名前は多い。中村真一郎、福永武彦、吉田秀和、掘田善衛、朝吹登水子、鶴見俊輔、垣花秀武、池田満寿夫、高坂知英、など錚々たる人物達だ。高坂は、あまり知られていないかもしれないが、退職後、独りでレンタカーを駆って、イタリアやフランスのロマネスクの教会をめぐるのを趣味としていた自由人である。加藤風の文体で中公新書に何冊かの本を残したが、とても面白い。イタリアのスポレートには、一緒に行ったようだ。高坂が独り自宅で死んで、しばらく発見されなかったことなどは「夕陽妄語」に高坂の名前は伏せて書かれた。

加藤は知の人であるばかりではなく、情の人であったのもよく知られている。パリに住むフランス人画家が困窮したとき、米国から現金ではなく、バゲットを送っていたという話を水村美苗が伝えていた。

私自身は謦咳に接する機会は、なかった。だがTVなどで加藤の姿はよく見たものだ。

加藤が各国語を駆使したことは周知のことだ。だが発音は必ずしもネイティヴほどではなかったようだ。語り口は独特でまさに加藤語という感じであったという。
TV対談では、アルベルト・モラヴィアとはフランス語で語っていたと思う。(ついでながら吉田秀和はフランス人作曲家ピエール・ブーレーズとはフランス語ではなく、ドイツ語だった。)

また私はある方から、オフレコですよと釘をさされながら、その方が加藤と矢島翠と同席したときの話を聞いたことがある。その方が加藤著作集を読んでいると言うと、矢島が加藤の前で、「もっと読むべき本がありますよ」と言ったというのだ。実に愉快な話である。その矢島も加藤が亡くなったあと、膨大な書籍と資料を立命館大に寄贈し、「加藤周一文庫」としたあと、亡くなってしまった。加藤との情熱恋愛、パートナーとしての生活のことは矢島の文章には、ほとんど残らなかった。その生活は、サルトルとボーヴォワールを思わせるものだったという。



・あとがき



この文章は、まえがきでも書いたように、旅のあと突然書き始めたものだ。書き始めると止まらなくなった。私はよく眠る人間で自ら「眠りの達人」を名乗っていたが、書き始めると睡眠時間は減った。大脳が異常に興奮したのだ。そして驚くべきことに体重も減った。あれだけダイエットに失敗していたのに。
ダイエット方法に、あまり眠らず頭を使え、と書いてあるのを見たことはない(ありますか?)

構想を得てから、おおかたの文章を書いたのは、1週間かからなかったほどである。自分でも驚いている。書きたいことは、次々と浮かんで来た。加筆修正は、極めて簡単にiPhoneで出来るから、ほとんどの文章を、寝っ転がって書いた。
女友達は、下書きの段階から私がメールで送ると読んでくれた。私が加藤の本を紹介した彼女は、私の文章を読んだ感想を、「加藤のより分かりやすい」と言った。それはあたりまえのことだ。私の頭脳は加藤ほど複雑高度ではない。表現の手段も粗末なものだ。

それで思い出したのが、小学校の国語の教科書に書いた加藤の文章だ。読んだのは、もちろん生徒たちだが、法学の川島武宜も、とても面白く読んだと言ってくれたという。ところが、国語の教師たちからは、良く分からなかったと言われたらしい。

加藤の「最終講義」(かもがわ出版2013)は、加藤がこれまで語ったこともない内容(マルクス、ウェーバー、分析哲学など)を、大学生や一般人にやさしく語りかけている。そして院生相手になると、ちょっとトーンが変わったりしている。「夕陽妄語」を依頼した朝日新聞は、サラリーマンが分かるような内容で、と注文したとも聞く。そして小学生。加藤は自在に相手をみて説明の難易度を変えることができたようである。

さて、私はとりあえずこの文章を下書き保存する。加筆修正は好きなときにする。たぶん活字にはしない。将来どんな形になるのか、いまはわからない。(2014.4.3)




*ここで句読点表記について私見を述べてみる。加藤も日本語文の句読点の位置がきまっていないことを気にしていた。私はつまるところ、パッと見たときの美しさが問題だと思う。そのためにどうしたらいいのか。読点の配置が肝心だ。多すぎず少なすぎず。意味がとれるようにと、やたらに読点を打つのも、その逆も望ましくない。そのためには、平假名がぶつかるときには、あえて漢字にする、あるいはその逆に漢字を平假名にするといった工夫が必要になる。同じことが文章全体に言える。やたらに長く行間がない文章は、読む気を失わせる。



追記 (ここから黒色に戻す)

1 (2014.10.8)

上記の下書きを、書いてから、さらに約半年が流れた。
私はまた西欧、こんどはフランスに短い旅をし、戻ってきて、ここに付け足す文章を書いている。

最近の海外旅行が便利になったのは言をまたない。旗を挙げてツアーコンダクターが団体を案内しているのは、かつては日本人だったが、いまは中国人である。日本人は老若男女を問わず友人とあるいは個人で、旅をしている。インターネットでポチっと押すだけで、すべての予約が出来る。ほとんどのホテルにwifiがあり、日本の情報も簡単に手に入る。

つまり、浦島太郎になることは、自分が望まぬ限りは、まずないということだ。そこで私が思い出すのは、まだインターネットや、FAXがない時代、日本の新聞すら遅れて届いた頃の加藤が、日本の事情に通じていたということだ。どうしてそんなことが可能だったのか。

海外生活が長くなれば、まずめまぐるしく変わる日本語の新語に疎くなって当たり前である。最近の日本はKYとかJKとかが分からないとバカにされるほどだから、加藤が日本語について、自分は保守主義者だ、と言ったあと、いや反動主義者だと訂正したのはさもありなん、と思う。

加藤がそう言ったのは、犬養道子とNHK-TVで対談したときだ(1969)。NHKのアーカイヴにはあるかもしれないが、活字化はされてない。私は当時若かったから、いまでも、そのときの加藤のしぐさ、表情も憶えている。その番組で、加藤はfrustrationと言って、しばらくそれに対応する日本語を思いつかなかった場面があった。犬養も何か助けようとして思いつかない。当時、この英語は「欲求不満」と訳されていた。しばらくして、そうほんの数秒なのだが、加藤が言ったのは「挫折」だった。そうなのか、挫折とfrustrationは一緒なのか、当時私にはこれが小さな衝撃であった。

後年でも、凡人会の前で、加藤は「テレヴィのアンカーマン、あれは日本語で何と言うんですか」と聞いていた。

それにしても、日本語の変化はすさまじい。だがインターネットが世界を狭くした。余談ながらインターネットまたはWWWを発明したのは、 ティム・バーナーズ=リー Tim Berners-Leeだが(告白すれば、私は、この名前も忘れていて、いま検索した)、彼は著作権を放棄して無料で開放している。もし持っていれば、ビル・ゲイツを超える富豪になっていたかもしれない。世の中には奇特な人もいるものだ。

だが、ネットには困った欠点がある。頭を悪くするという事だ。ナビに頼ってばかりいると道を覚えない。検索に走ると記憶力が衰える。世の中、あまりに便利になるのも善し悪しかもしれない。

思えば私が最初に西欧を訪ねたのは、1969年夏である。当時は外貨持ち出し10万円、1ドル360円の固定相場であった。それでも団体旅行で1ヶ月半は旅出来た。帰国して石川淳の「西遊日録」を真似して「西欧瞥見」という小文を書いたりした。今回は西欧は8回目となる。それぞれの滞在は短いから、あいかわらず瞥見にすぎない。

いつも文学のことを考えているほど風流な性分ではないが、今回も昂揚感があり、ルーヴルの「アヴィニヨンのピエタ」を見たあとで家に戻って再読したのが「絵のなかの女たち」である。感想は私の書評ブログ「濫読亭日乗」に記した。 


2(2015.3.28)

さて、前回からまた半年が流れた。同じ現象がまた起きている。そう、寝不足・時差ぼけ(ホンモノのボケ?)そして脳の活性である。今回のローマの旅も短いものだが、私の主なる関心は、古代ローマとバロック美術だ。私は旅の前、かなりの本を読み半年準備した。しかしそのことは別の場所に書く。

ここからいきなり話題は変わり、加藤の話だ。加藤はなぜ晩年に至るまで、あれほど博覧強記だったのか?もちろん脳細胞の数が違うが、私が思うに、書き、かつ、人の前で喋っていたからだと思う。教師は教えることによって学ぶという。つまりinputだけではダメなのだ。

outputし、聞いている人に質問されると、自分の理解が不完全だったことがわかる。なにより固有名詞を忘れない。加藤がひとりで何時間でも喋っていたという事実が、脳の活性化の要因なのだ。オバサンたちが、ベチャベチャ喋っているのも、内容はともかく、濡れ落葉の孤独な男性たちより長生きする原因だろう。「おい、アレはアレだよな」では、伝わらない。
映画のタイトル、俳優の名前、なんでもいい。すぐ検索せず、ボケ同士で思い出しあう。その過程が切れたシナプスをつなげる。書くのもoutputだ。文章は下手でもいいから何か書く。思い出しながら、すぐにではなく翌日書くのもいいかもしれない。

生き生きとした老人をみると、いくつかの特徴をみることができる。1.身体を柔軟にし鍛えていること。2.毎日新しい情報にcatch upしていること。3.指を使っていること。4.他人と積極的に交わっていること(妻ばかりではヤバい。「妻の顔は1円玉、これ以上はくずれない」というではないか)。5.できれば若い人の中に入ること(20代が最高だ、できうれば異性)。6.ユーモアを忘れないこと。7.仕事以外の趣味を持つこと、それも今までやったことのない事への挑戦。(私の場合、男の料理を1年前から本格化している。料理はアタマと身体を使う。)

もっとも元気すぎる働く老人が多いのは社会にはマイナスだ。仕事は若い人に譲ること。お金の問題は心配するほどではない。歩き、自転車に乗り、図書館に入り、外食を控えて自炊し、安くて美味しい野菜や鶏肉などを食べ、スマホをいじり無料のコンテンツを楽しむ etc

以上、簡単だが自戒も含めた認知症対策である。


































































 

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