加藤氏は、「人間と芸術」』(「人間の研究VI」・有斐閣:1960)を編んだとき、
寺田透に、日本の絵画にあらわれた芸術思想というテーマで執筆を依頼した。その課
題に寺田は十分に応えていない。

たぶん加藤氏はそれに飽き足らず、自ら筆を執ったと思われるのが、『日本における
芸術思想の展開』 (岩波講座:「哲学」XIV「芸術」所収)である。しかし、こ
の36ページある力作は、著作集、単行本など、いずれにも掲載されていない。のみな
らず、平凡社の年譜にすらのっていない。これはどうしたことであろう。『芸術論覚
書』(1962)(筑摩書房「古典日本文学全集36・芸術論集)は、内容的に近いが、は
るかに簡略である。

加藤氏が一番脂の乗り切っていた頃の文章である。良くも悪くも、この文章は、極め
て断定的であり、それが魅力である。




『日本における芸術思想の展開』 加藤周一

 ここで私は「芸術」ということばを、詳しくは定義しない。漢然と、詩歌・書画・
建築・彫刻・管弦・能狂言・歌舞伎・茶道を含めて、その全体を意味するものとす
る。この解釈は、今日広く行われている「芸術」の用例と必ずしも一致しない。私の
「芸術」は、たとえば、定型の詩歌以外の文学を含まない。また伝統的な日本には、
それほど広い「芸術」の概念はなかつた。芭蕉は、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の
絵、利休の茶に、共通の一つのもの、「風雅」を見ていた(「笈の小文」)。けれど
も、建築や音楽も帰するところ一っであると考えていたかどうかは大いに疑わしいの
である。私がここで述べようとするのは、右の意味で、日本の芸術の特徴であり、そ
の特徴が、芸術についての理論にどう反映してきたかということである。これはいわ
ば、「芸術にあらわれた思想」の指摘である。つぎに先人が日本の芸術について語っ
た理論が、どういうものであったかということである。これはいわば「芸術について
の思想」の概説である。最後に、そういうことの全体が、今日のわれわれにとってど
ういう意味をもち得るか、いくらか私見をつけ加える。すなわち「芸術の意味」であ
る。

1

芸術にあらわれた思想

1

 日本の伝統的な芸術の杜会的背景は、西欧諸国の場合と似て、中国を含む他のあら
ゆる社会の場合と著しくちがうものである。思想的背景は、中国の場合と共通の面を
含み、西欧を含む他のあらゆる社会の場合と根本的にちがうだろう。また芸術の異る
形式の間の相互関係という点でも、独特のものがあって、ある面では中国に似、ある
面では中国を含めてどこの国にも似ていない。日本の芸術の外面的な特徴は、おそら
く、この三つの観点から説明されるだろうと思う。

 歴史時代の日本には、異民族の侵入ということがなく、奈良時代から今日まで、人
種・言語・.生活様式の統一が破られたことはなかった。そのことは、ある種の日本
の芸術の、殊にたとえぱ和歌の歴史の、「万葉集」から今日まで中断されたことのな
い連続性にもよくあらわれている。芸術の様式上の根本的な変化をつくりだした社会
的な要因は、異民族の侵入ではなくて、芸術を生産し享受する階級の交代ということ
であった。もちろん外国、殊に中国の影響ということもある。しかし外国との接触の
し方、開国と鎖国の決定は、同じ体制によって行われたのではなく、多かれ少かれ文
化を担当する階級の交代を含むところの新しい体制によって行われたのである。中央
集権的貴族支配の体制を確立した十世紀以後の権力が遣唐使を廃し、十三世紀以後の
封建的武士が大陸との交通を再開し、徳川幕藩体制が鎖国し、明治政府が開国し
た。中国の影響が少かったから、藤原時代の貴族文化が興ったのではなく、藤原時代
の貴族文化が成立したから、中国の影響は限定されたのである。(西洋の影響があっ
たから、小地主の息子が大学教育を受けたのではなく、小地主の息子が高等教育をう
けたから「自然主義」小説を書きだしたのである。) 平安貴族、僧侶と武士、町
人、最後に都市中産階級が、それぞれの時代の芸術の生産者・享受者であった。しか
しそれは、それぞれの時代に彼らだけが芸術の生産者であったということではない
し、いわんや唯一の享受者であったということではない。鎌倉時代以後にも、貴族は
和歌をつくっていた。ただ室町時代の新しい芸術、たとえば能や狂言や水墨画をつく
りだしたのが、宮廷ではなかったということにすぎない。江戸時代は単純に町人芸術
の時代ではない。上層武士は能を見物し、町人は歌舞伎(または人形)を見物してい
た。このような重層的構造が、江戸絵画の場合ほど鮮かに現れている例はおそらく古
今東西に例がないだろう。上層武士は、彼らの住居を狩野派の絵で飾った。中下層の
武士で、体制外に半ばはみだした知識人たちは、彼ら自身のために文人画をつくり出
した。上層の町人は、光琳.乾山の芸術を生み、下層の町人は浮世絵木版画を娯しん
だ。厳格に区別された身分制社会のなかで、それぞれの階層が、いわば専用の絵画を
同時に発達させ、その様式上のちがいがこれほど画然としていて、しかもそれぞれの
趣味と技術がこれほど高度に洗練されたということは、話が少し大げさにきこえるだ
ろうが、人間の歴史のなかで、江戸時代の日本以外には、世界中のどこにもなかっ
た。

 西洋でも階級の交代が芸術の様式の変化を生みだした。しかし様式は、時代と共に
変ったので、一時代のなかで、少くとも江戸時代の日本ほどに、重層して同時に発達
したのではない。中国の場合には、少くとも漢以来おそらく文化大革命まで、ただひ
とつの階級が、芸術を独占してきた。その階級とは、教育ある中国人すなわち官吏で
ある。(独占されたのは、むろん芸術ぱかりではなく、また学問でもあった。) 中国
の絵画の様式が、宋元以来、日本の場合とくらべて根本的な変化に乏しいのは、絵画
をつくり、享受してきたのが、常に同じ種類の人間であったからであろう。

 

 かくして日本の芸術には、おどろくべき連続性と共に、芸術的階級の交代・重層に
伴う様式の根本的な変化という面がある。千年以上も同じ詩型を固執してかずかぎり
ない歌をつくりながら、江戸絵画の千変万化を生みだした。そういうことを、芭蕉は
おそらく、あの有名な「不易流行」という言葉で表現したのであろう。しかし、単に
事実を表現したぱかりでなく、彼自身の俳諸の理論のなかで、統一的に理解しようと
したにちがいない。もしそうであるとすれぱ、「不易流行」の解釈において、「去来
抄」は誤り、「赤雙紙」は正しい。「去来抄」は、「不易の句」と「流行の句」とを
分けている。しかし「赤雙紙」によれば、一句が「不易にして同時に流行」の相を備
えているように読める。「師の風雅に万代不易有り、一時の変化有り。この二つに究
まり、其本一つ也、その一といふは風雅の誠なり」(「赤雙紙」)。これは、一時代の
特殊性に根ざすこと深ければ深いほど、芸術的表現は、時代を超えた普遍性に達す
る、あるいは、芸術における普遍的なるもの(不易)は、時代の特殊な条件(流行)に対
してではなく、それを通してのみ、あらわれるという風に読むことができるだろう。
それならぱ、それは俳諸にかぎったことではなく、日本の芸術の歴史の全体について
も、またおそらく芸術一般についてさえもいえることだ。芭蕉の俳論は同時に日本の
芸術一般の論でもあった。日本の芸術についての論が、芸術一般の論になりえたの
は、殊に日本の芸術の歴史において、あらゆる芸術の歴史に普遍的な問題、連続性と
変化、超歴史性と歴史性、普遍的なるものと特殊なるものとの相互媒介現象が、もっ
とも鋭く、徹底した形で、あらわれていたからである。


 中国大陸から洗練された世界観の体系(儒・仏・道)が入って来るまえに、日本に
は、此岸的.・非超越的な一種の世界観があった。今それを神道的世界観とよぶとす
れば、その神道的世界のなかで、仏教が栄え、儒教が支配し、さらに西洋思想の影響
が加わった。日本の芸術の歴史の思想的背景は、そのような外来思想の「日本化」の
過程である。「日本化」の内容は、大ざっぱにいえば、「世俗化」である。そこで日
本は、中国と共に、世俗的(非宗教的)な芸術を、他のあらゆる文化よりも、はるかに
早く、はるかに長い時期にわたって、発達させたのである。もちろん外来思想が直接
に芸術を生みだすこともあった。しかしそれは決して芸術の全領域に及ぷものではな
かった。というよりも、芸術のある領域は、ほとんど全く外来思想の影響をうけつけ
なかった。たとえぱ八世紀。天平の仏教寺院がならびたった時代に、「万葉集」に集
められた叙情詩の圧倒的多数は仏教と何の関係も示していなかった。それは「万葉」
の歌人たちが、自然の風物を詠っていたからではない。「挽歌」を検討しても、そこ
に仏教的要素がほとんど全く認められないのである。これはキリスト教のゲルマン世
界における役割と、仏教の奈良朝における役割との、根本的なちがいを想像させるの
に充分な事実であろう。その後におこったことは、第一、仏教の此岸的な面の強調
(仏教そのものの世俗的な解釈)、第二、本地垂迹(神道との融合、妥協)、第三、仏教
と係わりのない芸術の発達である。それが仏教の「日本化」ということの内容である
といってよいだろう。鎌倉仏教は、現世「否定の論理」としてあらわれたが、それは
ながくはつづかなかった。


 鎌倉以後の仏教は室町時代の芸術にどういう影響をあたえたか。多くの史家は禅の
影響について語っている。禅林の詩文、水墨画は、十五世紀以降にいよいよ盛大を加
え、禅宗との関係浅からぬ能(たとえば禅竹)も、また「禅味」をみずから貴んだ茶
も、時代を下るに従って、いよいよ繁栄した。しかるに禅宗の宗教的性格(その世界
観の絶対的な超越性、難行の規律、他の宗教や文化に対する非妥協的態度)は、十三
世紀前半の道元に典型的にあらわれ、その後次第に失われた。そのことは、五山の詩
僧の著作を年代に順って一瞥しただけでも、歴然としている。禅宗が衰えると、芸術
が栄えた。禅宗の影響がその芸術を生みだした、というのは、どうしても無理であ
る。「影響」という以上、影響するもの(仏教)と影響されるもの(芸術)とがあって、
前者が盛大であれぱあるほど、影響の度合が大きくなけれぱならない。現に奈良仏教
は盛大に赴いて天平の仏教美術を生んだ。禅の精神地を払って、芸術が栄えたとすれ
ば、禅とその芸術との関係は、――関係の密接なことに疑の余地はない――「影響」
という概念では説明されないものであろう。室町時代の芸術に禅が影響をあたえたの
ではない。室町時代に禅が芸術になったのである。

 

 儒教については、「世俗化」の語を用いることができない。しかし江戸時代のはじ
めに幕府が教学の指針として採用しようとした宋学は、一種の形而上学的な体系であ
り、その後に、その非形而上学化、および非体系化の過程がつづいたのである、非形
而上学化は、宋学の「理」概念の超越的性格が失われてゆく過程に実によくあらわれ
ている。非体系化は、儒者の関心が実践的な倫理綱領および政治経済学(または詩文)
へ集中してゆく過程によくあらわれていた。大きくみれば、鎌倉仏教を世俗化した日
本の伝統的世界は、江戸時代に、宋学の体系を分解し、形而上学的超越的原理からそ
の形而上学的・超越的性質を抜き去り、儒教を実践的な倫理と社会(政治.経済)的な
見解に還元した。仏教を「日本化」したカと、宋学を「日本化」した力とは、つまる
ところ同じものである。世界を、今・此処において、実践的および感覚的に捉え、日
常的現実を超える何ものに対しても、その束縛を拒否しようとする力(または態度)。
実践的な面では、一種の倫理的厳格さ(価値)と共に、西鶴の描いた町人の現実主義
(行動)が生みだされ、感覚的な面では、江戸芸術の享楽主義が洗練された。天地の理
が同時に人間の身心を支配する理であり、特殊な法則としての理の背景に普遍的な
「理」が存在する―という思想が、宋朝以来の中国の芸術家にとって、重大な関心事
であったことに、ほとんど疑の余地はないであろう。そういうことが、江戸の儒者の
重大な関心事でありえたかどうかさえも疑わしい。いわんや芸術家にとってそういう
ことが問題になっていたろうと想像する理由は全くない。


 芸術にあらわれた思想と、芸術の理論との間には、常に必ずしも調和ばかりがある
とはかぎらない。殊に後者が外国語で語られる場合にはなおさらである。理論は、そ
の時代に支配的な知的言語で語られるほかはない。しかるに平安・鎌倉時代の知的言
語は、仏家のそれであった。室町時代には、仏家・儒家のそれであり、江戸時代には
主として儒家の、明治以後には主として西洋哲学の言語であった。故に神道そのもの
についてさえも、まず天地垂迹説があり、吉田神道があり、垂加神道があった。そう
いう言葉で、仏教・儒教を「日本化」せずにはおかなかったもの、すなわちもと神道
的な日本の世界観と、その世界観のなかから、その世界観と密接に絡んであらわれた
日本の芸術を語ることは、困難なはずである。別の言葉でいえぱ、室町の水墨画の世
界ではなく、源氏物語絵巻の世界について、.理論的に語ることができるときは、ま
た同時に、神道的世界について儒・仏の語彙に頼らずに語ることのできるときでなけ
ればならなかった。宣長が「あはれ」の美学を説き得たのは、儒・仏伝来の以前にさ
かのぼって、本来の神道的世界を日本語で語ることに成功していたからである。


 宣長によれぱ、「此天地も諸神も万物も皆ことごとく基本は、タカミムスビノカ
ミ、カミムスピノ力ミ・・と申す二神のムスビのみたまと申す物によりて、成出来た
る物」で、そこに善神と悪神とが作用し、吉凶善悪を生じているが、基本の道理は、
「さらに人の智慧を以て測識すべきにあらず」(「玉くしげ」)。したがって仏家のよ
うに、善悪応報を以て説明しようとするのも、儒家のように理気説を以て合理化しよ
うとするのも、「作事」であり、「ひが事」にすぎない(「答問録」)。そこで世の中
に対しては、第一、「強ひたる事」を行わず、第二、「今の世の国政は、又今の世の
模様に従ひ」、第三、「いささかは道理にあはざること」があっても、これを深くと
がむべきではない(「玉くしげ」)。人の生き方としては、「人の心のありのまま」、
「まことの心」を尊重して、仏の「方便」、儒の「から心」を排することが望まし
い。そういう世界のほかには、いかなる来世もない。「世の人は、貴きも賤しきも善
(ヨキ)も悪(アシキ)も、みな悉く、死すれば、かの予美国(ヨミノクニ)にゆか
ざることを得ず、いと悲しきことにぞ侍る」(「玉くしげ」)ということで、死後につ
いては、それ以上の議論がない。すなわち宣長が考えた神道的世界は、徹底して此岸
的な世界であり、しかもその此岸的な世界を支配する普遍的な原理は、考慮の外にあ
るものであった。そこまでが「古事記」を内容とする宣長の世界である。しかし宣長
は「古事記」を研究したからその世界を信じたのではなく、その世界を信じたから
「古事記」を研究したのである。その世界を十八世紀の後半に生きた学者が信じるこ
とができたのは、その世界が儒・仏の千年に及ぶ影響の後にもなお多くの日本人の世
界であることをやめていなかったからであろう。宣長の天才といえども、「古事記」
を通じて、ほろぴた世界観を復活させることはできない。しかし無自覚的に存在しつ
づけていた世界観を、自覚的に捉え、知的に顕在化することは、彼の天才と生涯の努
カをもってすれば可能なことであった。


 そういう世界観を信じていた、―あるいはむしろそういう世界に生きていた以上、
「人の心のありのまま」は、関心の中心にならざるをえない。「物のあはれ」とは、
その「まことの心」の、「から心」によって歪められない、直接の表現にほかならな
い。「あしわけをぷね」から「源氏物語玉の小櫛」・「石上私淑言」に到る歌論・物
語論にそのことは充分に説かれている。「あはれといふはもと、見るものきく物ふる
事に、心の感じて出る、歎息の声」である。「物語にて、人の心のしわざのよきあし
きは、…:大かた物のあはれをしり、なさけ有て、よの中の人の情(こころ)にかな
へるを、よしとし……」従って「儒仏の善悪とは合ハざる」もので、「人の心のあり
のまま」をあらわすものである(「源氏物語玉の小櫛」)。和歌はまた、「只思フ事ヲ
程ヨク云ツツケルマテノ事」であり(「あしわけをぶね」)、さらにそのことは「玉勝
間」の画論における写生の強調とも呼応するのである。


 芸術のさまざまの形式の間には、異る文化のなかで、異る関係が支配している。貴
族文化が宮廷に集中し、そこで和歌・物語・絵巻・管弦・香の諸芸が密接な関係に
あった(平安時代)ということは、必ずしも日本文化に固有の現象ではない。僧院(殊
に鎌倉・室町時代)を中心にして詩・書画・能楽の行われたことも、たとえば西洋中
世の僧院の役割を想起させる。そのとき宋・元・明の影響は、強かったから、その状
況の中国のそれに似ていたことはいうまでもない。詩・書・画の密接な関係は、中国
において独特のものであり、それが日本にも輸入されて、ひとつの特徴となつた。し
かし日本人は、中国において発達した形式をそのまま踏襲していただけではない。か
な書きの和歌を、扇面や短冊の上にちらす工夫は、日本人のものであり、その文字と
画面との関係は、水墨画と讃との関係とは、視覚的にちがうものである。宗達.・光
悦以来、かな文字のちらし書きは、陶器や漆器の表面にもあらわれ、その細い線が、
中国流の書の真行草とは全くちがう効果を生みだした。江戸時代には、劇場が、世俗
的な町人芸術の中心となった。江戸の音楽は主として劇場音楽であり、木版画の半分
は役者絵であり、詩的想像力のもっとも豊富な展開もまた劇場にあつた。それはほと
んど西洋の大伽藍が対位法と中世絵画と彫刻を生みだし、その庭において劇の一形式
をつくり出したのに似ている。歌舞伎の劇場は、世俗的江戸文化のカテドラルであっ
た。

 
 このように日本の芸術史には、あるときには大陸からの影響のもとに、あるときに
は中国の伝統とは関係なく、芸術の各形式を分化させるよりは、綜合する傾向が強く
働いていた。遠心力よりは、求心力がめだっていたといってもよいかもしれない。そ
の極端な.場合が、利休の茶である。そこでは、造園・建築・水墨画・陶芸・生花・
和歌の諸芸が、茶人の意識のなかで一箇の全体をつくっていた。その全体のなかに
は、音楽さえも含まれていたといえるだろう。奏楽を用いなかったのは、利休の耳が
鈍かつたからではあるまい。あまりに敏感で、庭の泉水の響きや、枝を移る鶯、ま
た、かや葺き.の星根に落ちる時雨の音をこまかく聞きわけ、殊に長い沈黙と、沈黙
を破る入相の鐘の余韻を愛したからであろう。何においてそのすべては統一されてい
たのか。このすぐれて「日本的」な綜合芸術が、超越的な存在(たとえば阿弥陀仏)、
または存在の否定(たとえぱ「般若心経」の「空」)、または絶対的な原理(たとえば
宋学の「理」・あるいは古学派の「先王之道」)において、統一されていたろうとは
想像し難い。茶人の生活を超える何ものかによって統一されていたのではなく、茶人
の生活そのものにおいて統一されていたのであろう。「南方録」は、利休の語とし
て、「花紅葉」「書院台子の結構」も、遂に「浦のとま屋」「雪間の草の春」にしか
ずと悟るところに、わぴの茶の本心があると書いている。その本心を仏道とよぶかよ
ばぬかは、あまり大切なことではない。大切なのは、美学と化した一つの本心または
生き方があって、あらゆる芸術がその生活に組み入れられていたということである。
これは「人生のための芸術」ではなく、「芸術となった人生」である。日本の芸術の
歴史の、「求心性」は、その極限においてここに到るのである。

 

2

 芸術の題材という点からみれば、日本の芸術はどう特徴づけられるか。

 一般に芸術家は、その題材を、自己をとりまく環境に含まれないもの(たとえば中国
人の竜)に、もとめることがある。また環境のなかの文化的要素(たとえばわが絵巻物
の家屋)に、もとめることがあり、環境の自然的な要素(たとえぱオランダの風景画家
の広い空)に、もとめることもある。日本の芸術家は、そのどの型に属するか。

 たしかに「万葉」以来、歌人は「自然」を詠い、画家は「自然」を描いてきたよう
にみえる。山川草木、花鳥風月、日本の芸術的世界の特徴は、そういう「自然」の題
材である、と多くの人々が説明してきた。その説明は、誤ではないにしても、正確で
はない。

 風景画は中国で興った。その起源をはっきり定めることはむずかしいらしいが、唐
代に盛んであったことは確かだろう。西洋の画家が、自然を背景としてではなく、独
立の重要な画題として、盛んに描きはじめたのは、十七世紀である。中国は風景画に
おいて西洋に少くとも千年以上先んじていた。中国に官立の画家の学校がつくられた
のは、十二世紀のはじめであり、フランスに同じ種類の学校がつくられたのは十七世
紀である。その教授科目を比較すれぱ、中国では風景画がフランスでよりもはるかに
重くみられていたということがわかる。中国と西洋の絵画に関するかぎり、中国側に
おいて「自然」の題材がその特徴のひとつであった、ということに疑問の余地はな
い。日本には中国の影響が及んだ。風景画が早くからわが国にあらわれたとしても、
それだけのことから、日本の画家の、「自然」の題材への特別な嗜好、たとえば「自
然愛」というようなものを、結論することはできないだろう。殊に室町時代の水墨山
水の多くは、宋元画を手本とした画家が、みずから見たこともない風景を描いたもの
である。見たこともない風景を描く動機は、「文化」に対する関心であって、「自
然」に対する関心ではない。しかもそれは水墨の山水にかぎったことではなかった。
藤原定家の日記、「明月記」には、承久元年(1219年)の条に、最勝四天王院の障子の
絵のことが語られている。定家が全国の名所を選び、それを四人の画家が描く。定家
はみずから名所の大部分を見たことがない。画家もまた見たことがない。名所が名所
とされた理由は、「歌枕」として知られていたからで、自然そのものが格別の印象を
あたえたからだろう。「歌枕」は「文化」(の歴史)の問題である。「秋風ぞ吹く白河
の関」と詠った歌人は、むろん、白河へ行ったことがなかった。平安朝の貴族は、洛
外へ出ること甚だ稀であったらしい。それは旅の不便ということのためだけではな
かった。「名所」-すなわち「文化」の一部と化した風景には関心があったが、「文
化」と関係のない「自然」、たとえぱ中部日本の雪の山々や、太平洋の怒濤や、火山
灰地の荒涼たる風景には、関心がなかったからにちがいない。吉野の桜は描かれる
が、武蔵野の雑木林は描かれない。東山の嶺にわかるる横雲は詠われても、信州の秋
の澄みわたった碧空はどういう歌人の題材でもなかった。日本でも自然は芸術を模倣
していたのである。


 神道の世界が自然宗教的な世界であるということの意味は、二つしかない。第一、
この身のまわりの世界の他には、どういう別の世界もないということ。故に日本の歌
人は竜を詠わず、画家は極楽や地獄を描くこと甚だ稀であった。第二、その身のまわ
りの世界は、「文化」化された「自然」に他ならなかったということ。故に日本の歌
人は「歌枕」」を重んじ、画家は「名所」を描いて倦むことを知らなかった。正確に
いえぱ、日本の芸術の特徴は、「自然」の題材ではない、身のまわりの環境、日常的
此処、「文化」と化した「自然」にのみ題材をとって、怪力乱神を語らなかったとい
うことである。


 しかしそれだけではない。日本のすぐれた絵画には、源氏物語絵巻から、宗達の関
屋図屏風をとおって、光琳の紅梅白梅図に到るまで、抽象的な空間の分割と均質な単
色の平面でつくられた画面に、ほとんど「ミニアテュール」のように書きこんだ細部
がある。この細部は、殊に大画面の場合に、全体を見わたすことのできる距離から
は、識別することができない。すなわち細部は、全体から全く切りはなされ、細部そ
れ自身としても独立の意味をあたえられているのである。そういうことは日本の場合
にかぎらず、たとえばロシアの「イコン」や、フランドルの文芸復興期の絵画にもし
ばしばみられる。また中国の院体画のなかにも、その例が少くない。しかしそういう
「ミ二アテュール」様の細部を含む画面は、宗達・光琳の極端に抽象的な手法でつく
られてはいない。一種の抽象的絵画のなかに、「ミ二アテュール」をはめこむ工夫
は、日本人の特技であったといってもよいだろう。そのことは、むろん、陶器、漆
器、金銀細工などにおける細部の洗練と関係していたにちがいない。しかしまた、日
本の文芸のある一面、.話の全体から離れて紬部にこだわる異常な情熱とも関係して
いたはずだろう。

 顕昭の「六百番陳状」には、俊成の判詞の反駁が載せられている。「広沢の池さへ
渡る月影は都まで敷く氷なりけり」を評して、俊成は、広沢の池は京都から遠いか
ら、いくら冴え渡っても、「都まで敷く氷」とは見えないだろうといった。顕昭は、
詩歌は風惰を先とするから、その難は当らずと応えた。顕昭の反駁は、あたりまえの
ことにすぎないけれども、俊成の判詞は、おそらく日本以外のどこの詩人でも、到底
思いつかなかったものであろう。しかも、顕昭自身が、鴨長明から「石川やせみのを
川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む」を示されたときには、「石川せみのを川」が
実在するかどうか判らぬという理由で、判を控えたことがある。「其所の者に尋ねて
定むべし」(「無名抄」)。「無名抄」は、その他にも、長明自身を含めて、当時の歌
人たちの「名所」や「ゆかりの地」に対する態度を示す実に多くの挿話を伝えてい
る。たとえば、貫之の詠った「逢坂の関の清水」と「枕草子」のいう「逢坂の走り
井」とは、同じ水だと誰でも考えているが、実はそうではない。「清水」の方は「走
り井」とは別のと二ろにあり、「関寺よりは西へ、二、三町ばかり行きて、道より北
の面に少し立上りたる所に、一丈ぱかりなる石の塔あり。その塔の東へ三段ばかり下
りて窪なる所は、即ち昔の関の清水の跡なり。道より三段ばかりや入りたらん」とい
う条。そのあとに続けて、今は小家の後になり、水なくて、見所もない、というので
ある。個別的な事実への関心は、詩人の世界においてさえ、日本ではその中心的な部
分であった。なぜなら詩人の世界もまた、彼方の別天地ではなく、日常的な此処で
あったからである。

日常的此処において、芸術家が強調したのは、現在の心境、気分、あるいは感覚的
印象とむすびついた感情、要するに「情」といい、「思」といい、「心」というもの
であった。それは微妙を極めていて言葉には尽し難いものであるから、「余情」が大
切であり、直接に照応する言葉はないから、間接的にほのめかす、「幽玄」の趣きが
大切であった。これはたとえぱ、六朝の鍾エが「詩品」に説くところと、微妙にちが
う。「動天地、感鬼神、莫近於詩」は、ほとんどそのまま、「古今集」の「真名序」
に採られ、「仮名序」に和訳されていることは、周知のとおりである。しかし「詩
品」は「三義」(興、比、賦)を解して、「文己尽而意有余、興也。因物喩志、比也。
直書其事。寓言写物、賦也。」といっている。「興」は、そのまま「余情」であり、
「比」は、ほとんどそのまま「幽玄」であろう。しかし「賦」すなわち「写物」の一
面は、日本の歌人が平安朝以来天明に到るまで、強調しなかったことである。それは
「詩品」の側に、「人」と「物」とを超える「気」があり、「気之動物、物之感
人」、人の感情が「舞詠」にあらわれ、舞詠が「動天地」という風に進みえたのに対
し、「古今集」の側には「気」がなかったからであろう。中国の詩を論じる人は、誰
でも、「詩品」と共に「文心雕竜」(劉思)を引く。その「原道」篇にいう、「実天
地之心、心生而言立、言立而文明、自然之道也。」日本側の「心」は、形而上学的な
「天地之心」ではなくて、心理学的な「心」であり、「情」であった。すなわち「幽
玄」の形式を通して、「余情」の効果をもとめる心であった。


 伝李唐の「牧童図」というものが、今、大和文華館にある。牛一匹、雪中を歩ん
で、背景の省筆の極端な小画面にすぎないが、眺めていると、ほとんど肌に寒気を感
ずるほどである。画の迫真性において、この中国製の小画面に匹,敵するものは、室
町の水墨画では、雪舟の他にない。中国の画論では、骨法(書と共通する)と写実の二
要素が対立し、あるときにはその一方が強調され、また別のときには他方が強調され
た。その対立が、調和綜合された結果、画面に気韻生動を生じるという考え方もあら
われた。しかし室町時代の水墨画家にとって、山水の写実が重大な関心事になり得な
かったであろう事情は、まえにも触れたとおりである。そこで「骨法」と「気韻生
動」とは同じものとなり、「気韻生動」の解釈は、いよいよ主観的にならざるをえな
かった。筆さばきに、画家の心的状態が反映される、――それが反映されたかぎり
で、画に値うちがあるという考えは、筆法の約束が細かく定められているということ
と、少しも矛盾しない。かくして書画の区別は、根本的には消え去り、いずれも書家
または画家の、その日、その時の、「心」に帰するということになる。すでに藤原教
長は語っている。「手跡にて人の心の程は被知也。……故本文曰、用筆在心、心正則
筆正と也」(「才葉抄」)。しかも書画の区別がないばかりではない、尊円法親王によ
れば、「管弦、音曲、詩歌…一切事、其理二には候はず、……されば万法さながら実
相の一理にて候」(「入木抄」)というところまで、主観主義が徹底したのである。



 日常的此処と芸術家の心的状態の今において、日本の芸術が成立してきたというこ
とは、その世界が普遍性よりも特殊性を強調してきたということである。その関心
は、抽象的な全体よりも、具体的な部分にあった。その作品は、知的・構造的である
よりも、感覚的に微妙であり、その理論は、法則よりも、語彙に係わり、文章法的で
あるよりも、意味論的であった。

そのことは、演劇理論の大部分が、劇の構造に関する理論ではなく、役者の芸談で
あった、ということにも、あらわれている。関心の集中するところは、誰が何時演じ
ても、同じ芝居の構造ではなくて、ある日、ある時、決して繰り返されぬ所作を、い
かにして磨きあげるかということであった。これは劇に対する西洋的(アリストテレ
ス)、またはインド的(バラタ・ムニ)理論と著しくちがうものである。また、たとえ
ば、中国の詩論は、平仄の普遍的な規則を発達させた。(これは意味論から完全にき
り離された音声学的構造の理論である。) 日本の歌論は、その影響のもとにおこっ
たにも拘らず、煩瑣な「歌病」論を整理し、やがて個別的な歌について「詞のつづき
がら」に注意を集中するようになった。(そこでは音声学的・文章法的・意味論的面
が、分化していない。話が抽象的でなく、具体的であり、したがって普遍的法則へは
向わない。) しかし日本の芸術的世界が、普遍性よりも特殊性を強調してきたとす
れば、必ずや、その特徴は、もっとも基本的な二つの芸術、音楽と建築に、あらわれ
ていなければならない。すなわち音楽的時間の特殊性と、建築的空間の特殊性であ
る。芝居における役者の重要性に相当するのは、音楽の場合には演奏家の重要性であ
る。誰が弾いても、楽譜に忠実であるかぎり、「平均率ピアノ曲集」のフーガの構造
は変らない。だから演奏家のちがいが重要でない、ということはできないが、構造
は、バッハの音楽において、決定的に重要なものである。日本の音楽には、むろん、
フーガとは別の種類の構造がある。しかしその構造は、バッハの場合と同じ程度に重
要なのではない。義太夫の三味線の勝負は、むしろ各瞬間に、その場で決るのであ
る。語りとのかね合い、微妙で複雑な音色、演奏家の一回限りの創造に属するもの。
西洋の古典音楽の時間は、作曲家の秩序であり、楽譜に書くことのできるものであ
る。日本の音楽の時間は、演秦家の呼吸であり、楽譜に書くことのできないものであ
る。ベルグソン流にいえば、一方にはメトロノームで測ることのできる抽象的で空間
的な時間があり、他方には測ることのできない具体的で心理的な時間がある。一方に
は、時間の普遍性があり、他方には、その特殊性がある。日本の音楽が劇場を中心と
して発達したということは、舞台における特殊な状況(言葉と所作によって表現され
るところの)と密接不可分のものとして音楽が考えられてきたということであろう。
能は、西洋流の歌劇ではない。一曲毎に別の音楽が書かれたのではなく、あらかじめ
定められた楽句が一曲毎に別様に演じられたのである。ここでも演奏家の、井伊直弼
の茶の湯についていった言葉を借りれば、「一期一会」の用意に万事がかかってい
た。すでに芝居が、作者よりも役者の世界であり、抒情詩が、詩法の規則性よりは語
彙の特殊性を強調してきた文化のなかで、音楽は構造の普遍性よりも音質の微妙複雑
な特殊性によって、訴えるものであった。

 

 日本の建築的空間には、どういう特徴がみられるか。中国の影響が、奈良朝から平
安朝にかけて、.都市計画、寺院および貴族の邸宅(寝殿造)の様式に、著しかったこ
とはいうまでもない。中国の都市は、碁盤目を以て区画されていて、その区画は京都
にそのまま移され、京都の区画は、その後の城下町の模範となった。中国の建築の平
面図は、寺院、宮殿、住宅の区別なく、比較的小さな建物の左右相称的配置を根本的
な原理としていて、寝殿造はそれをそのまま写したものである。しかしそれほど圧倒
的な中国の影響にもかかわらず、後年の中国と日本の建築には、実に著しい相違があ
らわれた。中国建築の特徴については、伊東忠太博士が、書いている、「何れの国に
於ても、儀式的の建築又は体裁本位の建築には左右均斉の配置をとるが、住宅の如き
生活上の実用を主とする建築は、漸次に進歩発達して、不規則なるプランとなるのが
普通である。然るに支那に於ては住宅すらも太古以来猶、厳正なる左右均斉の配置を
保ちつつ今日に及んでいるのは、天下の奇蹟である。」中国側が「奇蹟」であるとす
れば、日本側が直接の模倣を廃すると同時に、違う行き方を示したのは、少しも不思
議ではないだろう。しかし江戸時代の武家屋敷のいくつかは今日も見ることができる
し、平面図の残っているものも少くない。その「不規則なるプラン」は、「何れの国
に於ても:…・普通である」程度の不規則性ではなくて、不規則の徹底したものであ
る。しかも武家屋敷は、実用のみならず、体裁をもかなりの程度に重んじたはずで、
しかもその平面図の途方もない複雑さ・不規則さは、たとえぱフランスの貴族の邸宅
(今日実に多く残っているところの、江戸時代に相当する時代の作)においては、到底
想像もできないほどである。すなわち中国には平面図の極端な左右均斉があり、日本
(の少くとも近世、―ということは中国建築の圧倒的な影響を脱した時期)には、極端
な不規則性があった。中国の規則性の固執が奇蹟的ならば、日本の不規則性の徹底も
奇蹟に近かったのではなかろうか。それぱかりではない、中国と日本の木造建築の、
もう一つの著しいちがいは、中国側では表面に派手な色を塗り、日本側では材質の特
殊性を尊重して塗装しないのを原則とするということである。色を塗れぱ、遠目に効
果があり、材料の個別的な特徴は消える。中国の伝統は、色の普遍性を強調し、日本
の伝統は、材質の特殊性を強調してきた。

 西洋人は、大きな空間を分割して、そこに機能的に分化した小空間をつくろうとし
た。中国人は、小さな等質の空間を、渡り廊下でつなぎ、左右均斉の配置によって統
一ある全体にまとめようとした。日本人は、一挙に見わたすことのできる大きな空間
の全体を必要とせず、それぞれ独立した(相互に酷似した)小空間のなかの一つで、あ
るときには、白砂の庭に光る朝の陽ざしを眺め、また別のときには、別のもう一つの
小空間で、泉水に降りそそぐ夕暮の雨を眺めたのである。伝統的な日本の住宅の一部
屋は、建物の部分ではなくて、それ自身完結した空間であった。一部屋ともう一つの
部屋との関係は、空間的構造の部分と部分との関係ではなくて(それは抽象的な関係
である)、時間・空間的な距離によって隔てられる二つの状況のより具体的な関係で
あつた。廻遊式の庭園のなかを歩くように、あるいは東海道五十三次を旅するよう
に、人は日本の建築の内側を見て廻るほかはない。人は同じ時に二つの場所にいるこ
とはできない。次の時間にどういう場所が現れるか動いてみなければわからない、不
意を突いて鋭く響く能の鼓のように、もう一つの部屋と、その思いがけぬ見はらし
は、動く人の時間のなかに突然あらわれる。もし日本の音楽の特徴が、空間化された
時間の構造にではなく、それぞれの瞬間の質的な充実にある、という二とができると
すれば、日本の建築の特徴もまた、空間の全体の抽象的な構造にではなく、時間化さ
れた空間の具体的な特殊性にあるということができるであろう。

 つまるところ日本の伝統的な芸術の世界は、時間と空間との交るところ、「今・此
処」において、その特殊性において、成りたったのである。

 



芸術についての思想

1

 芸術について書かれた日本人の著作の、今日に伝えられていてもっとも古いもの
は、藤原浜成の歌論「歌経標式」(七七二年)である。これは中国六朝の詩法にかり
て、「和歌七病」と「和歌三種体」(求韻体に二種、査体に七種、雅体に十種を別つ)
を挙げ、簡単な説明を加えながら、それぞれ一首(または二首)の用例を引いたもので
ある。歌論はその後、平安時代に及んで大いに栄えた。

 歌論についで古いのは、詩論であり、これは弘法大師空海の「文鏡秘府論」(一説
に八一九年頃)にはじまる。詩文の形式について、中国の理論を整理して紹介し詳細
を極めている。これは単なる中国側の著者のひき写しではない。中国の詩論には同じ
事を指すのに多くの言葉を用い、混雑を極めているから、大いに斧鉞を加えて、明快
を期する、と著者みずからいっている。若くして「三教指帰」を書き晩年「十住心
論」に到った天才の面目躍如たる中国詩論研究であって、引用された厖大な詩書の一
部は今日失われて他にみることができない。殊に「八病」の名目を挙げる。書は多い
が、「八名目各箇の性質に到りては、唐以前の書に於ても、或は唐代詩を説きたる詩
格、詩式の類の書に於ても之を説明せるものあるを知らず、独り我朝釈空海の撰著に
かかる《文鏡秘府論》、《文筆眼心抄》に於て詳かに之を説けるを見る」と鈴木虎雄
博士はいう。遣唐使がはじまって(六三〇年以来)、二百年にみたず、九世紀のはじめ
に中国文化の理解が、空海の水準に達し、彼我の差を越えるに到ったことは、後年の
遣元の場合とともに、注目すべきことである。

 歌論と詩論を除けば、平安時代の末期に到るまで、著作年代の正確に知られた芸術
論で、内容の詳細なものは、ほとんど一つも知られていない。造庭、音楽、書道につ
いての著作が、はじめてあらわれるのは、乎安末期、鎌倉時代である。能楽論は、世
阿弥の十五世紀にはじまる。画論の見るべきものは、すべて徳川時代に属する。

 歌論・詩論を含めて、芸術に関する著作の内容は、およそ次の四種類に別けて考え
ることができる。第一には、初心者のための入門作法書、技術的な解説を主とするも
の。第二には、その道の由来、伝説、また芸術家に係わる挿話や伝記。第三には、芸
談。第四には、せまい意味での芸術理論。

 

第一、入門作法の書は、もっとも早くあらわれる。「作庭記」は、藤原良経の作と
伝えられていて、石の立て方、泉水のつくり方などを、具体的に説く。作者には触れ
ず、庭の美学と称すぺきものは含まない。「教訓抄」は狛近真の作で楽器の由来、奏
法、音楽についての挿話を語っているという。(私はまだこの本をみていない。)
「麟麟抄」十巻・附録二巻は、最古の書道論とされているが、むろん藤原行成の作と
いうのは仮託にすぎまい。今かりに平安末期か鎌倉時代のものと考えておく。内容は
いくらか書道の由来、伝説、理論らしきものを含みながら、主として用筆の実際を細
かく解説し、習字手本、字配り、真行草の書きわけ、仮名の扱い方、筆や硯や机の寸
法にまで及んでいる。絵画については、こういう種類の入門書がさかんに現れるの
は、江戸時代になってからである。殊に「芥子園画伝」(一六七九年)の輸入以後た
とえぱ林守篤の、「画答」六巻(一七二一年)はその初期のものに属する。「六法三
品」からはじめて(これは謝赫の画論を写したものにすぎない)、画具の製法、紙、
筆、硯、屏風の張り方まで、技術的説明に詳しい。このような職人の手引き書は、完
備したものが江戸時代に多いのである。

 
 第二、由来記、伝記。これは芸術家にっいての話を主として、必ずしも芸術作品そ
のものについての話ではない。しかし早くから世俗的芸術を発達させた文化のなかで
は、芸術作品の価値が作品と超越者との関係によって定義されないので、作者の人格
との関係によって定義されることが多かった。芸術家と、その作品についての話は、
鋭く区別されない。入門作法の書、また後述する芸談、理論の書にも、芸術家につい
ての逸話の類が混らないことは少ない。江戸時代には、詩人.歌人についてのみなら
ず、書家や画工の逸話・伝記を集めて数百人以上に及ぶものも現れるようになった。
そのなかでおそらくいちばん早いものは、狩野永納の「本朝画史」(一六九三年)で
ある。その逸話には、誇張甚だしく、真偽相半ばするという意味でも、同時代の小伝
に共通の傾向を示している。また書家の伝には、「能書事蹟」がある。著者、穂積保
の伝は不詳。化政の人なりという。書家の逸話をあつめて、真偽半ばするであろうこ
と、画家小伝の類に同じ。

 
 第三、芸談。典型的なのは、世阿弥の能楽論、大蔵虎明の狂言論、「役者論語」七
部の歌舞伎論である。役者が自已の経験に則して芸を語る。語る相手は、一般的な公
衆ではなくて、弟子、または将来弟子の弟子たるべき者、どれほど広くみても同業の
専門家である。入門書は、その道に志す誰に対しても、約束や慣習や技術を概説しよ
うとするもので、原則として客観的な叙述をとり、しばしば著者自身の苦心のあり所
には全く触れていない。これに対し、芸談は、私的な性質を帯ぴていて、著者の個人
的な経験ときり離し難いところで、その苦心や、洞察や、信念の眼目を、いきなり、
直接に語るのである。入門書・作法書の言葉は、教師の言葉である。芸談の言葉は、
「ひとりごと」(鬼貫)を呟く芸術家の言葉である。前者は、はじめから普遍的な立場
をとり、後者は特殊な立場の特殊性に徹底する。前者が芸術哲学を生みだしたことは
ない。しかし後者は、常に特殊性に徹底しながら同時にそれを普遍性へ向って超えよ
うとする精神の運動を含むのであり、したがって単に外在化された規則の普遍性では
なく、内在的なものを外在化することにより法則の普遍性を生みだそうとする。すな
わち芸術哲学の可能性を常にはらんでいたのである。能楽論がしぱしぱ芸術哲学にち
かづいたのは、そのために他なるまい。

 日本の芸術家は、芸談において、実に深い言葉を吐いた。それは役者の場合にかぎ
らない。日本人が芸術について考えたときには、ほとんど常に芸談の形をとった。歌
論・俳論・画論の多くは、全く芸談にちかいものであり、茶道・書道についても同じ
ことがいえる。しかもその内容には、著しい共通点がある。南北朝の書家も、室町時
代の能役者も、江戸時代の俳譜の宗匠も、歌舞伎役者も、南画家も、すべて強調して
いたことは何であったろうか。思うに、大別して三つがあった。第一、師匠の尊重、
第二、自己の訓練(日常坐臥その道を忘れぬこと)、第三、効果をもとめず、自然をも
とめること。

 

これを書道家の言葉でいえぱ、第一、「この道を知らず、口伝を受けずして、なま
じひに道に耽る輩、多く正路に叶はず」(「入木抄」)、第二、「恒に筆墨之芸ヲ翫
ヒ、薫習之功ヲ積ミ」(「麟麟抄」)、第三、「達者の筆勢」「眼前の風流」により、
素人をおどかすよりも、「道を知りたるまなこの前に」「自在無窮の体」を示すべし
(「入木抄」)、となる。

 
 これを役者の言葉でいえば、第一、「至りたる上手の能をば、師によく習ひては似
すべし、習はせでは似すべからず」(「花鏡」)、第二、「精を出すといふは、ねて
も覚めても、仕内を工夫し稽古にあくまで精を出し:…」(「舞台百ケ条」)、「女形
は楽屋にても、女形と、いふ心を持つべし」(「あやめ草」)、第三、「万人にほめ
られんより、道しれる者一人にほめられんこと」をもとめ、「わざとならずして、爽
かに、其物々になり、興ありて、すなほに」すべきである(「わらんぺ草」)というこ
とになろう。


 このような考え方の中心には、職人の「芸」の、世襲・徒弟制度という社会的な背
景があり、そこでの師匠と弟子との密接な人格的関係ということがあるだろう。しか
しそれだけではなくて、少くとも「道を知りたるまなこ」にとっては、芸の「質」に
ついての確信があったにちがいない。芸の「質」を代表するのは、師匠であるから、
当然師匠の絶対化ということもあったはずである。他方「芸」の訓練は、単に知的な
ものではなく、身体的なものであった。芝居についてどんな考えをもっていようと、
その考えが身体で表現されなければ、役者の問題ははじまらない。文字の気品を眼が
見分けても、手が動かなければ、書家ではない。しかし身体を動かし、手を訓練する
のは、当事者の事であって、本来これを他人に言葉で伝えることができないものであ
る。そこが先人の知識(多かれ少かれ普遍的な)を書物から受けとり、その先を考える
ことのできる学問と、先人の行った身体の訓練を、わが身においてはじめから繰返さ
なければならない芸道上の大きなちがいである。書物から受けとるものはないから、
師匠からの、以心伝心、直接に人格的な接触をとおして習うものが、貴重であり、決
定的なものとなる。画論において、一種の精神主義を強調した田能村竹田も、「心与
目通、目与筆合、所謂意在筆先也」(「山中人饒舌」)といった。そうでなければ、画
家ではない。かくして芸道の訓練の強調と、師匠尊重との間には、内的な連関があ
る。他方訓練がある段階に達すると、効果を狙ってこれを収めることは、あまりに容
易で、馬鹿馬鹿しく見えて来る。たとえば坂田藤十郎にとって、客に掛声を出させる
位のことは、実に容易であったろう。だから「見物をわすれ、狂言をまことのやうに
まんろくに、いたし…」(「耳塵集」)といったのである。「ほめさせんとするは下手
芸也」(細川幽斎「耳底記」)。そこで「上手の芸は、わざとならずして:…」という
結論も出て来たにちがいない。大蔵虎明は「わざとならず」といったとき、芭蕉は、
「取物自然にして子細なし」(「三雙紙」)といったとき、鬼貫は「おのずからのまこ
と」(「ひとりごと」)といったとき、何について喋っているのか、実にあきらかに
知っていた、―あるいは、感じていたにちがいない。彼らは彼らが行き着いた「心与
目通、目与筆合」の状態について語っていたのである。

 心・目・筆の三つの要素は、芸術家の制作という行為(経験)の個々の場合には、一
致して意識される。個々の場合から出発して、その経験を一般化しようとすれば、三
つの要素相互の関係は、「問題」.として知的考察の対象にならざるをえないだろ
う。目は題材を見る、筆は形式を描き出す。心・目・筆の関係は、また心・形式・題
材の関係にも応じるだろう。そこから芸談は芸術理論に移る。芸術の理論は、芸術家
の経験の特殊性の、知的分析的操作をとおしての、普遍化に他ならない。

2

  日本の芸術理論は、「心」と「形式」との関係を、「心と詞」の関係として論じ
た。歌論、殊に平安時代のそれで、この問題にふれていないものは、ほとんどない。
「形式」と「題材」との関係は、演技の様式と写実(ものまね)、あるいは「虚と
実」との関係として、能.狂言歌舞伎作者が論じた。「題材」と「心」との関係は、
「写実と気韻」との関係として、江戸の画論が繰り返しとりあげて倦まなかつた。
「心」「形式」「題材」の三つの要素を、再び一挙に統一しようという試みは、体系
的ではないけれども、俳論にあらわれた、といえるだろう。―伝統的芸術理論に含ま
れる問題が、以上に尽きるというわけではない。しかし長い間、多くの著者によっ
て、分析されつづけて来た問題は、およそ以上のように整理して考えられると思う。


 歌論が「歌経標式」にはじまることは、すでにいった。「心と詞(形式)」の議論
も、藤原浜成にはじまる。彼は「詩経大序」に従って、「在心為志発言為歌」、すな
わち志の言葉としてあらわれたものが歌である、といった。ところが歌病を挙げ、三
体を論じるのは、全く形式に係わることである。なぜ形式のみを論じるのか。それは
先人が意(こころ)を主として、辞(ことば)を綴るのに疎浅であつたからだとい
う。、「上古人淳俗質、綴辞疎浅。専以意為宗以不能以文為本」。すなわち「歌経標
式」は、それ以前に、「こころを先にする」(理論でないまでも)態度があり、その
反動として「ことばを先にする」議論を進める、とみずから説いているのである。し
かし「歌経標式」の歌病が、詩病の直訳であり、それが日本語の歌に適合しないこと
はいうまでもない。浜成の功績は、形式(ことば・姿)を論じることの意味をあきらか
にした、という点にあって、その議論の内容ではなかった。


 果してその後二五〇年、十一世紀の初に、「新撰髄脳」をつくった藤原公任は、歌
病八つ(「歌経標式」は七っを挙げているが、その後中国の詩病に応じて八つとされ
た)を削って、「同心病」ひとつにしてしまった。これはもっとも合理的な整理であ
る。それぱかりでなく、公任は、心と形式(姿)との関係について、実に決定的なこと
をいったのである。一、すぐれた歌は、「心ふかく姿きよげ」、すなわち心と形式と
の双方の備わったものである。二、どちらか選ばざるをえないときには、「先づ心を
とるべし」。三、どうしても深い心をえられないときに、歌をつくるとすれば「姿を
いたはるべし」。


 第一点は、これより先、九世紀末に「古今集序」が、「心を先にする」ことをもと
めたのとくらべて、大きな進歩である。十二世紀末の定家も、「心詞の二はただ鳥の
左右の翅のごとくなるべきにこそ」(「毎月抄」)といったときに、全く同じことを
いっていたにすぎない。間題は、第二点にある。どちらかを選ばざるをえないときに
は、心を先にするか、ことば(姿)を先にするか。そのときに、「心」をとるのは、公
任の態度である。しかしそのときには、詞をとるという態度もありうるだろう。した
がって、議論は、「新撰髄脳」を以て終ることができなかった。


 しかしそれだけではない。公任が、心と姿の歌、心の歌、姿の歌という順序をたて
たのは、単に「心」を強調する「古今集」以来の伝統を襲いだだけではなかった。彼
の生きていたのは、藤原時代の宮廷文化が、絶頂に達した時代である。「紫式部日
記」の記事は公任が二十二歳のときにはじまる。それは「枕草子」「源氏物語」「栄
華物語」の時代であった。歌は宮廷生活の応答の形式となって、日常化していたはず
である。誇張していえば、彼の周囲では、日常会語が歌によって行われていた。日常
会話から抒情詩を区別するのに、ことばの形式(姿)によることができないという特殊
な状態があったから、公任はそれを「心」によって区別しようとしたに違いない。そ
のような状態は、十二世紀後半の動乱のなかで、崩れた、それでも歌の世界では
「心」の強調がつづいたとすれぱ、その意味は、公任の時代にもった意味と同じもの
ではありえなかった。

「歌も心を本として、その上詞をもとむれば」(「八雲御抄」)
「むかし上人いふ、和歌はつねに心すむ故に悪念なくて……」(蓮阿「西行上人談
抄」)
「万葉の頃は心のおこる所のままに同事ふたたぴいはるるをもはばからず…:・」
(「為兼卿和歌抄」)
これはいわば手当り次第の選択にすぎない。「心を先とする」議論の例は、歌論のみ
ならず、江戸時代の俳論においても枚挙にいとまがないほどである。
「常風雅にゐるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定るものなれば・・…・」
(「三雙紙」)
「只心を深く入て、姿ことばにかかはらぬこそこのましけれ」(「ひとりごと」)

 鎌倉時代から室町時代にかけての堂上歌人にとっては、―公任の時代とは何という
ちがいであるか―、歌が心を先としたのではなく、心が歌を先としたのである。その
心は藤原時代の貴族の心ではない。武士封建社会のなかで疎外された心。歌に逃避を
もとめるか、歌を通じて地位を保つか、そのどちらかでしかありえなかった心。後年
太宰春台(「独語」)もいったように、詞は誰でも学ぷことができる。しかし堂上の
心は、誰も学ぷことができない。従って歌道は貴族の独占するものでなければならな
い:・…。


 江戸時代の俳人もまた町人社会の周辺に住んでいた。少くとも芭蕉とその仲間・弟
子たちは、俳諧のなかに生きがいを見出そうとしていたし、その世界の根本にはこと
ばを越えるものがなければならなかった。それは疎外された心ではない。一種の主観
主義のなかで、生活と芸術の全体を統一しようとする意志であった。

 

「心と詞」との関係を、逆転させたのは、十八世紀にあらわれた国学者、殊に本居
宣長である。なかでも「あしわけをぶね」(一七五〇年代初)は、理路整然、―とし
ているぱかりでなく、春台に劣らず論戦の活気にみちている。「和歌ハ言辞ノ道
也」、これはほとんど儒は言辞の道なりといった徂徠(「学則」)を思わせる。儒者
の心からはなれて、言辞の研究が、歴史的な事実(「物」)の知識をあたえる。研究の
対象が、徂徠においては、漢代以前の古典であり、宣長においては、「古事記」で
あったにすぎない。徂徠は、後代の学者の解釈を排して、宋儒を攻め、宣長は、「古
今伝授」を無意味なりとして、堂上歌道の権威に挑んだ。


 「ヨキ歌ヲヨマムト思ハバ、第一ニ詞ヲエラヒ、優美ノ辞ヲ以テ、ウルハシクツツ
ケナスベシ。コレ詠歌ノ第一義也。」その理由は、「思フ心ハシゼントモトメスシテ
アル…:サレハモトム所ハ辞ヲトトノフルニア」るからである。しかるに先人がこと
ごとく情(こころ)を強調してきたのは、「中古以来ノ歌ハ」題詠によるところが多
かったからである。題詠においては、「題ニツイテ情ヲモトメ、サテソノ情ニツイテ
詞ヲモトムル」他はない。「シカルヲ題ヲトリテ、マツ情ヲモトメスシテ、タダ詞ノ
ミヲモトメカザル」ことが大いに行われたので、「先達ノ専ラ情ヲサキトシテ、詞ヲ
ツギニセヨト、フカクイマシメラレタル也。」この議論の後半は、趣旨において、私
がすでに公任について述べたところと相通うものである。宣長もまた公任と同じよう
に、その時代の現実(ここでは同時代の歌人のそれ)から離れて、議論を弄んだのでは
なかった。

 「形式」と「題材」との関係については、「題材」を「役者の身体的条件」とおき
代えて、世阿弥がその「花」との関係を論じている。すなわち「花伝書」(「年来稽
古条々」)の説く、「時分の花」と「真の花」との区別である。「時分の花」は、若
い役者がその「声と身」の自然的条件を利してつくり出す「花」であり、「真の花」
は、老年の役者が自然的条件の不利を克服して実現する「花」である。後者すなわち
「芸」であって、「芸」は様式の肉体化であるということができる。もし「形式」を
能の様式とみ、「題材」を能役者の身体とみれば、「花伝書」の「真の花」は、その
弁証法的綜合である。「形式」を能の様式とみ、「題材」を物まねの対象(モデル)と
解すれば、「わらんべ草」の大蔵虎明が「下手の能は狂言になり、下手の狂言は能に
なる」に通じよう。ここで「下手の能」は、空虚な形式主義、様式の普遍性だけが
あって役柄の特殊性のないものである。「下手の能」は、もっとも単純に考えられた
「リアリズム」であり、芸術的様式化のない物まねを意味するにちがいない。故に
「難波土産」に穂積以貫の録した近松門左衛門の談話は、「虚実皮膜の間」を説いて
やまなかった。「虚」は舞台の約束・様式・芸術的形式であり、「実」は物まね、す
なわち役者の身体と化したモデルの個別性であろう。このような演劇論には、日本の
芸術を語る人の多くが触れている。今これ以上たち入って説くまでもあるまい。

 

江戸の画論は、すくなくとも十八世紀の半ばから後に、二つの流れを生んだ。一方
は、画面の「気韻」を強調し、画家の「心」の表現を説いた。主として南画家の議論
である。田能村竹田については、すでに触れた。「心正則筆正」(柳公権)を引きなが
らも、「山中人饒舌」(一八一三年)は、心・目・筆(手)の一致を説いた。桑山玉洲
は、「鳥にして鳥にあらず、花にして花にあらず」「其形象を取らずして其物趣を写
したるもの」を絵画の理想とし(「玉洲画趣」一七九〇年)。その「物趣」(また彼は
「情趣」ともいう)を写すのは、文人のみの能くするところであり、真の画家と画工
との区別もそこにしかない(「絵事鄙言」一七九九年)。このような考え方は、江戸
時代を通じて洗練された。ここでも「心」の強調は、「題材」の表現の意味を無視す
るものではなかった。むしろ「心」を中心として、「写実」を説いたのであり、描い
た物の形に外在化された内在的なるものを、気韻とよぼうとしていたのである。理論
においてそうであり、大雅・蕪村においては、理論がそのまま作品でもあった。(彼
ら自身は、画論を残していない。)しかし浅薄に解釈された理論(「心がけさえよけれ
ば誰にでも絵がかける」)は流行し、竹田のいわゆる「心与目乖、目与手反」する素
人の水墨はそれ以上に流行したらしい(ということは、明治以後にまでその影響の及
んだことからも容易に察せられる。)そこで流行の傾向に対する反動もまた極端には
しらざるをえなかった。


 絵画において、徹底的に「写実」を強調したのは、「玉勝間」(巻十四)の宣長と、
オランダ銅版画の影響をうけた司馬江漢である。宣長は、「人の像を写すことは、つ
とめてその人の形に似んことを要す」として、「ただおのが筆の勢を見せむとし、絵
のさまを雅にせむと」する画家を攻撃した。司馬江漢は、「探幽富士の画多し、少し
も富士に似ず、只筆意筆勢を以てするのみ」といい、「我国の人は万物を窮理するこ
とを好まず」(「春波楼筆記」)、その画は「翫弄戯技」であつて、到底蘭画の「能
造化の意をとる」(「西洋画談」一八〇〇年)に比すべくもないといった。同じく
「写実」を説きながら、宣長の根拠と、江漢の理由とは、むろん、別のものであっ
た。宣長は、「古事記」の世界の、「人の心のありのまま」説を、そのまま、絵画に
適用し、江漢は、西洋「窮理の説」を、そのまま、写実的画風とつなげて考えた。画
論として熟しないことはいうまでもない。しかし江戸時代に流行した日木的儒教解釈
の独特の主観主義の限界を示したという意味では、決して単なる妄説ではなかった。
すなわち絵画は、いや、一般に芸術は、明治以後において、再び定義されなければな
らず、あらためて文化の全体のなかに位置づけられなければならないだろう。



3 伝統的芸術思想の意味


 以上の如き日本の芸術的世界と、芸術についての観念は、今日のわれわれにとって
どういう意味をもち得るか。詳説するに紙面がないので、私見を要約すれば、次の如
くである。


 「芸談」は、芸術が社会によく組みこまれていた時期に行われ、「理論」は芸術家
が、新しい文化と相対し、そのなかにあらためて芸術を位置づけ、その価値を再確認
しようとしたときに、あらわれた。「理論」に対するわれわれの関心も、今日われわ
れのおかれている状況にもとづくのである。


 芸術のおかれていた伝統的世界の構造は、西洋では、神・人・自然の縦の段階的な
関係であった。中国では、人・自然が水平にならんで、それぞれが「理」の頂点につ
ながる三角形であった。日本では、水平の人・自然が、直接に(媒介者なしに)、つな
がっていた。近代的な世界では、西洋型の、「神」が「人」に吸収され、中国型の
「理」が「法則」におき代えられて、人・自然が法則の頂点につながる三角形をつく
る。


 近代の型では、人・自然は、直接には、むすびつかない。人は、知的に法則を捉
え、その法則を通して、自然にはたらきかける(科学的思考の普遍性)。そこでは
自然的身体、およびそれと別ち難い感情、に係わる人間の一面が、知的活動から
分離され、疎外される。しかるに日本の伝統的な芸術の理諭は、身体的一回性・
特殊性の基礎(訓練)の上に発達し、自然的なるもの(身体・感情)の特殊性を知的普遍

へ高めようとするものである。今日そういう過程を、人格的神や、形而上学的理を媒
介と
して行うことはできない。日本の伝統は、そのまま今日の問題への回答ではないけれ
ども、
回答を編みだすために、もっとも考慮すべき基盤を提供するだろう。

 このようなすじ書きには、もちろん若干の註釈を必要とする。私は近い将来に、
もう少したち入って私の意のあるところを説明したいど思う。今日われわれの問題
で、
われわれだけの問題であるものは、本質的には、ひとつもない。

(了)

 















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