文化一般


*加藤も言うように「文学と芸術は、それぞれ「文化」の部分であり、文学と芸術と文化が、同列にならぶのではない。・・・文学と芸術は思想的水準において、またその水準においてのみ、深く結ばれ、1つの文化に統一される。」(中国語『日本文化論』序 2000) しかしここでは便宜的に文化一般についての語録と、芸術・文学についてのものを区別した。


 ・「すべての文化は伝統的であり、伝統的でない文化は存在しなかった。なぜならば文化とは、一国民のなかで次第に熟する意識に他ならないからである。」

 ・「ドイツに関しては、つまるところ謎でないものはない。その政治も、藝術も、あらゆる矛盾にみちみちた精神も」(ヴィーンの想い出 1955)

 ・「美のために何事も忍ぶことのできた国民は、同時に観念のためには何事も忍ばない国民であった。」(近代日本の文明史的位置 1957)

・「けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう」(「野上弥生子日記私註」1987)

 ・「文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。」(歴史の見方 1986)

・「文化は分割することができない。それどころか文化を経済的・政治的・宗教的条件から切り離すことさえもできないだろうと私には思われる」(オランダの光 2003)



芸術



 ・「藝術の目的が複雑だったことは未だ嘗てない」(日本の庭 1950)


 ・「精神とは何等かの行為或いは作品に実現されなければ存在しないものだ」(ヴェルコールについて 1951)


・「藝術は天下の大事ではない。しかし天下の大事から、まともな粗描一枚出ていないこともまたあきらかである。」(戦争と知識人 1959)

  
・「鋭い眼が傑作を発見するのではなく、傑作が眼を鋭くするのである」(薬師寺雑感 1959)

・「天才は荒野にあらわれず、ただ文化的伝統のなかにあらわれる」(「源氏物語絵巻」について 注5 1965)
  
 ・「もし芸術の普遍性について語るとすれば、それは質を通して語るほかないだろう」(野村万蔵の芸 1965)

 ・「ジャコメッティが描いたのはモデルの肖像ではなく「人間の条件」の肖像であったろう」(ジャコメッティまたは純粋芸術家 1970)

・「芸術的な表現は、おそらく意識下のもの、あるいは少くとも感情の力をかりてしか、成り立たない仕事である」(小倉朗または音楽の現代 1971)

 ・「私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない」(著作集「芸術の精神史的考察 I」 あとがき 1979)

 ・「生きているからバッハを聞くのではなく、バッハを聞くことが出来るから生きているのだ、という面が、私になくもない。」(1979)

 ・「藝術においては、心が形を生みだすのではなく、心が形になる」(「日本美術の心とかたち」あとがき 1997)




思想

  ・「普遍的なものは、すべて思想的なものである」(「西洋讃美」あとがき 1958)

  ・「一般に定義は綿密であればあるほど議論の整理に役立つのではなく、議論の性質に応じて「適度な」綿密さを備えているときに、その議論のために役立つのである」(竹内好の批評装置 1966)

  ・「ロマン主義とは、非社会的な自我の内面の歌である」(「追いつき」過程の構造について 1971)



文学 :  (定義)「現実の特殊な相を通じてある普遍的人間的なるものを表現する言語作品」(日本文学史の方法論への試み(1971)追記 1978)



 ・「「普賢」――余談ながら芥川賞はこの小説にあたえられた。即ち石川の名誉でなく、芥川賞の名誉である。」(石川淳小論 1955)


 ・「文学は、フランス以外のどこでも、フランスにおいてほど芸術的であったことはない。」(ジャン・ジロドゥー小論 1955)



社会・人生・自分自身


・「超越者を媒介することなしに、人間の人間としての平等の原則をうちたてた社会はない。」(親鸞 注17 1960)

・「私はすべての「一辺倒」を好まない。「一辺倒」の心理は批判精神と容れないからだ。批判精神とは何か。つまるところ精神というに等しい」(日本の英語教育 1961)

・「おそらく20キログラムを越える私財は生活にも仕事にも必要ないのである」(読書の想い出 1964)

 ・「人は束縛を脱すれば脱するほど、自分自身の限界に束縛される」(「言葉と人間」 あとがき 1977)

・私は私の選択が、強大な権力の側にではなく、小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間の愛する能力を証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、私は常に、かぎりなく美しいと感じるのである。(「小さな花」  1979)

・「理解するとは、分類することである。・・・しかし愛するとは分類を拒むことである」(「絵のなかの女たち」あとがき 1985)


・「私は告白を好まない。しかし立場をあきらかにすることを、常に好むのではないにしても、少なくとも常に貴ぶのである」(梁塵秘抄 1986)

・「私が折に触れての異国暮らしを好む理由の一つは、日本国内での少数意見が国外ではしばしば多数意見になるからである。」(1994)

・「「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう」(老年について 1997)

 ・「私は自分自身にも、世間にも、あまり多くを期待しない。けだし失望を避ける唯一の方法は、やたらに高望みしないことだからである」(「夕陽妄語 第二輯」あとがき 1997)

・「「人生はボードレールの一行にも若かない」かもしれない。しかしボードレール全集もまた、愛する女との一夜に若かないだろう」(中村真一郎・白井健三郎そして駒場 1998)

 ・「私とは誰か、を決定するのは、私ではなくて、他者である」(「私にとっての20世紀」あとがき 2000)

・「人の命よりも高い価値は、この世にない」(「孫子」再訪 2005)


政治


・「私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた」(「現代の政治的意味」あとがき 1979)

・「15年戦争は、日本文化の、つまるところ大和心の、リトマス試験紙であった」(「戦争と知識人」を読む」あとがき 1999)

 ・「負の面を直視し、その責任をとろうとするのは、「自虐」ではない」(濃い霧の中から 1998)

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