鮮烈だった築地小劇場

 

加藤 原さんがこれまでご覧になった新劇の舞台の中で、どういう舞台が、ほんとに見事な舞台だった、ということで記憶に残っていますか。

  原 戦後では、千田是也さんの演出で、岸輝子さんが主演された、ブレヒトの『肝っ玉おっ母ぁとその子供たち』(一九六六年上演)、もう二〇年近くも前のことですが、これが、私に随一でしたね。

加藤 ほかにはどういうものがありますか。

原  そうですね。『セールスマンの死』ですかね。

加藤『セールスマンの死』は、どこでご覧になりました?

原 民芸の滝沢修さんがおやりになったものですね。もっとも、『セールスマンの死』は、一〇年前に、イタリアのフィレンツエでミラノの劇団の『セールスマンの死』をみたことがあるんですよ。『セールスマンの死』の舞台をみたのはそのとき初めてで、非常におもしろかったです。あと、脚本を読んだだけですが、『欲望という名の電車』を書いたテネシィ・ウィリアムズの『ガラスの動物園』は、とてもおもしろかったですね。作者の育った不況時代のセントルイスを背景に、南部育ちで昔の夢を追う母、足が悪くて極度に内気な姉、文学青年の弟の三人が展開する抒情的な追憶の劇ですが、日本でも、ああいうものが書かれればいいなあ、と思いましたね。

  加藤 ぼくは、『ガラスの動物園』を、アメリカの劇団の旅興業でパリでみたんです。独白の部分がありますでしょ。その独白がとてもうまかった。このまま終わらなければいい、いつまでも聞いていたいと、ほれぼれとする独白でしたね。

原 イタリアでみた『セールスマンの死』の主人公は肥満体の方だったですね。あのセールスマンが、あの太った体で、階段を上がったり降りたりして、体をこわすまで働いたんだなあと、とても感じましたね。

  加藤 それは、その役者がうまいんですよ。-

原 滝沢さんのつくりとは対照的で、滝沢さんのは滝沢さんで、もっと知的な感じで、とてもすてきなんですけれどね。滝沢さんの舞台では、.『子午線の祀り』の阿波民部重能をみたとき(第二次公演、一九八一年)一すばらしくうまいな、と思いました。.

  加藤 私もそう思いました。あれは大変感心しましたね。『子午線の祀り』は全体としていいものですね。いわば、日本の新劇の結論のようなところがあるんではないでしょうか。

. そうですね。いろんな伝統があの中に盛りこまれていてね。私は二十代の初めごろ、六○年ほど前、築地小劇場の時代から、新劇をみてきてますが…

  加藤 私も築地の舞台をみたことがありますよ。

原  山本安英さんの舞台も、そのころからみてますね。『桜の園』のアーニャとか、『どん底』のワーニャとか・…:

  加藤 私はね、『桜の園』という芝居は、東京、モスクワ、ロンドン、パリで、四ヶ国語でみた唯一の芝居なんですよ。国によって印象がまったく違いますね。モスクワ芸術座の『桜の園』に一番近かったのは、千田是也さんたちがやっていた築地小劇場の『桜の園』ですね。モスクワ芸術座というのは、途方もなくぜいたくな役者の使い方をする。ちょっとお茶をもって出てくるような召使いのフィリスの役に、日本でいえば劇団の主役をやるような人を使っているんですね。全くうまい。お茶もってくるだけで感心させてしまうのは、よほど腕のある人でないとね。ロンドンのヘイマーケット・シアターの『桜の園』は、みんな笑い通しでした。

  原 『桜の園』は、悲劇か喜劇かという論争がありましたね。

加藤 ぼくは、築地の『桜の園』をみてた経験から、みんな笑うんでびっくりしました。ところで、新劇はよくなっているとお思いになります?進歩していますか。

原 正直に申し上げますと、私、戦前、大阪から東京へ出てきて、音楽などまったくやるつもりもなかった物理学専攻の一学生だった時分、友だちに文化啓蒙者がいましてね。築地小劇場はじめ、美術展や音楽会、なにからなにまで、私を連れていってくれるんですよ。彼はなかでも演劇をやりたくて、毎月、私を築地に連れていってくれました。その時分、築地小劇場の舞台は、非常に鮮烈な印象を与えてくれたものだったですよ。宇野重吉さんと対談した折に、そういうことを言ったら、「そんなことはない。一年に十いくつも演目くんで、タッタカタッタカやって、ろくなことできたはずないんだ」と言ってましたが、とにかく、私に非常に強烈に作用したことは否定できないし、一生忘れられないことだと思いますね。そういうことがあるもんですから、それから後、新劇をさほどおもしろいと思ったことはないんですよ。

  加藤  だけど、それは、芝居だけだったでしょうか。物理の学生なんていうと、演劇のことなど何も知らないですんだわけでしょう。ことにあのころの日本はずいぷん窮屈ですね。自分たちの周囲にはないような人間の生き方や異質の世界を知るための窓だったんではないでしょうか、演劇や映画や音楽がね。

  原 そういう意味あいがずいぶんありますね。だけど、芝居を通して、人間というものを知っていった、人間を知るために、いろんな包み紙を開けてみせてくれたという感じはしますね。

  加藤 そうでしょうね。当時はなにしろ鎖国的状況でしょ。だから、映画などを通して、日本の外で何が起こっているのか、その感覚的情報が入ってくるということがあったのではないでしょうか。だから、つよい印象を受けた。

 

 

現代劇と古典劇の違いは

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原 ええ。芸術的作用よりも、それ以外の要素の影響の方が大きかったともいえるでしょうね。ところで、最近みた芝居の中では、井上ひさしさんの『きらめく星座』(一九八五年九月初演)がおもしろかったですね。

  加藤  そうですか。彼の『しみじみ日本・乃木大将』(一九七九牢、芸術座で上演)はご覧になりました?

  原  戯曲を読んで、ぜひみたいと思っているんですけれど……。馬が前足と後足に分解して、その馬脚から軍神乃木大将と近代日本を眺めるという芝居ですね。

加藤 ええ。乃木大将の三頭の愛馬が、馬体分解をおこして、後足と前足に分かれ、さらに、エリート意識から馬全体の主導権を主張する前足部分たちに対して、下積みの下半身である後足部分たちが反発して、人格分裂ならぬ「馬格分裂」をおこしてしまうんです。傑作ですよ! 近くのメス馬二頭も仲間に入ってきて、それも馬体分解し、馬の目からみた乃木大将の一生、しかも上半身的な価値観と下半身的な価値観に分裂した馬たちの眼に映し出された乃木大将の生涯が、馬たちによる劇中劇として展開するという、実に奇抜な芝居です。新宿の紀伊国屋ホールでみましたが、明治天皇が大元帥の軍服で登場するんですよ。ぽくは、日本の演劇の舞台で、天皇が出てくるというのは、このとき初めてでした。しかも、山県有朋や児玉源太郎などは、宝塚仕立てなんです。女が男役になってるわけです。

  原  そうですか!

加藤  最後の場面の演出が痛烈なんです。軍旗と日の丸の大きな旗が舞台に下がってきて、馬体分解していた馬たちが、また元に戻って、ワーツとその旗に駆けていって引き降ろしてしまうんですよ。これには猛烈なショックを受けましたね。

  原 よくやったですね!

加藤 そのとき思ったのは、日本演劇史上、江戸時代からこのかた、とにかく天皇を舞台にしてそこまでやったというのは、これが初めてで、もう二度とできないんではないか、最初で最後の事件ではないかと思ったほどです。

  原 今度の『きらめく星座』は井上ひさしさんの初演出ですが、この舞台でも、天皇の写真をいまにも落としそうになる場面がありましてね。

  加藤 そうですか。

原  昭和一五、一六年の時代の、オデオン堂という浅草のしがないレコード店の家族と下宿人たちの物語なんです。流行歌やジャズが大好きで、長男が軍隊を脱走し憲兵に追われる身という「非国民の家」ですが、「軍国乙女」の長女が「白衣の勇士」(傷痍軍人)たちと文通し、その一人と結婚してから、一転「軍国美談の家」に変身してしまうんです。婿入りしたカチカチの傷痍軍人は、軍国歌謡を扱うレコード店にするといって、天皇皇后両陛下の額をかけるわけです。ところが、その傷痍軍人が変わっているんです。「帝国の道義、ありやなしや」と悲痛な呻き声を発して天皇の御真影を壁から外して、いまにも落としそうになるんですね。これには、びっくリしました。いまの新劇の中で、こういう芝居はないな、と。『しみじみ日本・乃木大将』はもっとすごかったわけですね。

  加藤 すごいですよ。ところで、戦前、築地小劇場でご覧になってたとき、警官が「止めろ」といったことはございますか?

  原  たいていのときには、「中止!」とやっていましたよ。

加藤 学生のときには、それでよけい、感銘を受けましたね。芝居は下手でも、とにかく一種の連帯感がありますでしょ。舞台と観客との間に。芝居でそういうことを感じたのは、ベトナム戦争の最中、ジョンソンが大統領のとき、ニューヨークのマンハッタン南部のヴィレッジの劇場でみた『マック・バード』です。これは、カリフォルニアの大学の女学生が書いた芝居で、ケネディが殺されたあと大統領になったジョンソンとその夫人、レイディ・バードを扱っていて、『マック・バード』というのはシェイクスピアの『マクベス』のもじりですね。ジョンソンがマクベスで、レイディ・バードがマクベス夫人というわけです。「ダラスに行くのはチャンスだよ、あなた」とレイディ・バードが言うんですよ。あまりにも強烈なんで、劇場はなんとなくざわざわして、「止めろ」という人はいませんでしたけれど、数人の人は怒って出ていきましたね。戦前の築地小劇場のように、劇場自体が何か興奮のるつぼになるという雰囲気でした。もうひとつ、そういう体験をした舞台があります。ジャン・ジュネの『黒人』という芝居。黒人の白人弾劾芝居なんですよ。猛烈でしたね。パリでみたとき、観客はそうでもなかったけれど、ニューヨークで黒人の劇団が英語で上演したときはすごかった。お客はほとんど黒人、白人が四、五人、一番うしろの席にいた。ぽくは、黒人の友だちと二人でみにいってたわけです。芝居がだんだん猛烈になってくる。「黒人に親切にするなんてことが耐えられない」「てめえたちのいう人類愛なんて信用ならねえ。ごまかすな!」とすごいんですね。あまりにも激烈なんで、うしろにいた白人の客は全部出ていってしまい、途中からは、黒人でないのは、私一人だけでした。舞台と観客とが一体となった、一種のプロテスト、抗議の場と化したわけです。これには、おどろきましたね。

  原 演劇行動の中には、ある場合には、そういうことがおこってきて当然だといナことがあるのではないでしょうか。

加藤 それが、古典劇と違うところだと思います。古典劇はどこでやってもいい、たとえば、シェイクスビア劇は、モスクワでもパリでもロンドンでも、みんな、そこから何かをくみとるこどができる。ところが、ジュネの『黒人』は、黒人のいないところでやってもしようがない。現代劇は、そういう要素を含んでるから、古典劇と違うのではないでしようか。どこで、いつ、だれのためにやるのか、ということが、現代劇にとって大事ではないかと思います。

 

アメリカの伝統

 

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原  いま、お話を伺っていて、アメリカの小説家、ハワード・ファストのことを思い出しました。彼は一九一四年生まれで、現在もカリフォルニアに健在のようですが、アメリカの歴史の中から人民的な流れを汲みとるという巨大な仕事をやりつづけている作家です。南北戦争後の解放奴隷の自立への努力を扱った『自由の道』(一九四五年)、一八八六年、シカゴで起きたヘイマーケット事件を背景とした『アメリカ人』(全国的な八時問労働運動を弾圧するためにしかけられた事件で、メーデーの起源となった。でっちあげられ、裁判によって殺害された労働者階級のすばらしい代表者たちと勇敢なイリノイ州知事アルトゲルドを描いた作品)(一九四六年)、黒人の世界的歌手ポール・ロブソンのコンサートを妨害しようとするファシストとのたたかいの手記『ピークスキル事件』(一九四九年)や、映画『スパルタカス』や『死刑台のメロディー』の原作者としても知られていますが、彼は、支配階級がいう「非米」的なものこそ「アメリカ的」なものであることを示そうとしたんですね。アメリカにかつてほんとうの民主主義が存在しただろうか、アメリカの民主主義というのは、尊敬できるものをたくさん含んでいるけれども、それを徹底させることのできない本質的な何かがあるのではないか、というのが、ハワード・ファストの主張ですね。

 

加藤 そういう面もありますね。しかし、もっと本質的な、もっと大きい問題は、アメリカ国内での民主主義的基準と、アメリカが援助している国に対する態度とが違うということですね。アメリカ国内では、たしかに完全な民主主義というものからは遠いと思いますが、ほかの国々に比較して、言論の自由や人権の尊重は、ある程度はある。ところが、アメリカについて注意すべき点は、国内でそうでも、アメリカが援助しているほかの国の政府、たとえば、ピノチェットのチリやマルコスのフィリピンなど、アメリカ国内では考えられないようなこと・・・選挙のときに、反対党の党首を暗殺するとか、牢屋にぷちこむとか、銃剣でおどして投票させるとか、そういうことをするファッショ的政権なわけでしょ。めちゃくちゃな弾圧にガマンならないといって、その国の人々が抵抗すると、その人々に対しても、アメリカは直接、間接に介入してさまざまな形で弾圧するわけですよ。ニカラグワでもそうでしよ。そこが、今日のア メリカについて、はっきりすべき点ではないかと思います。だから、アメリカは自由の国だから、同盟国の中も同じだとはならないと思いますね。

  原  そうなんです。よくわかりますが、ハワード・ファストのいいたいことは、アメリカの反民主主義的なあり方を弾劾するだけでなく、民主主義実現のたたかいというのは、長くて困難な流動する過程だ、それはもう、ほんとうに身をすりへらすような一人ひとりの人間の一生をかけてのたたかいなんだということではないでしょうか。国外におけるアメリカ的反動の罪悪も根源はそこにあるんじゃないでしょうか。

  加藤 それはそうでしょう。マッカーシズムがありましたね。その圧カは非常につよくて、たくさんの人が、裏切ったり、失職したり、いまだに傷痕が残っていますね。だけど、たたかった人もいる!  フランスのトックビルがいったように、多数派の圧制、王様や独裁者が弾圧するのではなくて、国民の大多数が少数派や個人を圧迫する。多数派が反共で一致したときに、一人の共産主義者の人権が問題になるわけです。民主主義的制度の一つの危険は、多数派の圧制、独裁者が人民を弾圧するのではなくて、国民が少数派を弾圧する、それがアメリカの中でもずっとつづいているということです。にもかかわらず、アメリカの中には、一種の個人主義的社会が存在して、だから、一人でもたたかう勇気ある人がいれば、それを支持する人々も生まれるという、アメリカの中には、この両面があるのではないでしようか。個人のたたかいが、アメリカには割にありますが、日本の場合は少ない。日本は、ほんとうの「多数派主義」ではなく、その上に、「御上対下々」というものがのっかっていますからね。たとえば、アメリカで、自動車が危ない、安全な自動車をつくらねばならないといって運動を起こしたのは、ラルフ・ネイダーです。個人のたたかいに、市民が支援して、運動がだんだん広がっていった。日本では、はねあがり者といって、まわりがあまり支持しないでしょう。自民党がしきりに多数派だといっていますが、多数決は、日本の文化の伝統でばない、アメリカでは伝統なわけです。ただ、その多数派が圧制の多数派でもありうるどいうことですね。

 

外からの新しい血で

 

  加藤  話はかわりますが、いままであった学問の世界や芝居の世界、歌の世界に、外から新しい血が入らないと、その内部でただ細かくなるだけで、画期的に新しい思想やアイデアは出てこないと思うんです。いつも、都会の中産階級、大学出身のインテリゲンチャの中だけで話をしていると、どうも、事がどんどん小さくなっていくというか、もっと大衆の中から何かをもってくることが、ほんとうに新しいものを創りだすうえで、大事な条件だと思います。日本の文化を豊かに発展させていくために、大衆の中のどういうものが、積極的な意味をもっているとお考えですか。

  原  あなたがおっしゃった、古い文化というものは、次第に精密化されていくけれども、新しい血は湧かない、ということ、これは、どこの国の現象をとってもそういうことはいえますね。これに対して、たとえば、国民音楽が勃興するのは、新しい血を求めるうごきが燃えあがってくる現象だと思うんですよ。結局、それが大勢をしめるということが、少なくとも、音楽の世界では、各国に共通にあった。他の分野でも、いろいろバリエーションはあるだろうけれども、そのようなうごきは本質的にあるでしょうね。こういう場合の民族的なるものの正体は、いったい何なのか、ということですよね。次第に微分化され、次第に表現力が細かくなっていく外来の教養というのは、一言でいえば、民衆の日常的な生活感情ではないことは確かですよ。昔は、生産者といえば、主には農民とそれに付随する商工業者、こういう額に汗して、外界を加工し、新しい価値をつくりだしていく人たちの、自分の生活を意識する精神、生産者の精神、これを大衆の精神といってもいいと思いますが、そことの隔絶が、古い文化の精神的基調をますます色あせたものにしてきた。しかし、社会の基本的な変化・発展の中で、生産者の思想、感情が社会全体をおおってくる、文化創造精神も例外でなくなってくるという場合に、外界を変革していく生産者の精神が、新しい創造精神として働いてくるのではないでしょうか。日本の場含、戦前すでに、"日本的作曲"ということが唱導されましてね。外国の国民音楽のような作品を、ということで。唱導した人たちは善意でやったに違いないが、軍部が文化統制を始めた時分でしよ。日本の好戦的傾向、国家総動員体制に、創造の思想あげて、自らまきこまれていき、自らそれに参加していく危険が目に見えていたといえるでしょう。もっと理性的で、人間を大事にする創造精神を追究することが大切だ、ということが、当時の私たちの反対論だったんですけれどね。戦争がすんで六年たって、やれやれと思ったら、朝鮮戦争の勃発でしょ。占領軍支配の下で、またまた戦争などということをやられた日には、日本人はそれに対していったい、政治的、大衆的にどれだけの抵抗力をもちうるだろうか。米の強制供出でも、占領軍は農民の胸もとに銃剣を突きつけて強制的に供出させましたからね。そういうことをぬけぬけと通すのは、日本人の当時の精神状況としては自然ではなかった、がまんならなかった。だから、大衆の声を、音楽、舞踊、演劇などの仕事でもってあげていくには、やはり、民族的なもの、しかも生産者のもちつづけてきた表現要素を、もういっぺん考え直す、活用し直すことが、どうしても必要ではないかと考えました。

  加藤 どこの国でも、民謡というのはあまり変わらないわけでしよ。

原 そうでもないですよ。たとえば、ロシア民謡の代表曲でもある「ステンカ・ラージン」や「赤いサラファン」は、作曲者の名前はわかっているんですが、ああいうものが出るようになったあと、ロシア民謡はより古い民謡とは明らかにちがう、明らかに西欧的要素が加わってきている、ステファン・ラージンの事件、ブガチョフの事件、さらに後にはデカブリストの事件など、彼らの中に、民主を求めるうごきが回を重ねてあった。民衆をあげて、新しい世界を仰望するうごきがあって、そのときに民謡そのものが変わっていってるんですね。

  加藤 でも、日本の民謡は変化、発展していますか。

原 日本の場合は、そういうことも含めて、新しい課題の中にくり人れていかなければいけない。

  加藤  いままであまり変わってきてないわけでしよ。民謡プラス何かがないと、新しいものができないのではないでしょうか。

原  だから、民族的な要素を含んだ新しい音楽をつくっていくということなんですね。

  加藤  その音楽をつくるには、民謡のほかに、もうひとつ何かがあってつくるということでしょうか。

原  諸外国でもすべてそうですが、外来のものを排除しては、何もできない。ロシアにしても、北欧にしても、ボヘミアにしても、農民的要素は存分に活用しましたけれど、音楽文化の技法的な基盤は、やはり外来のものですよ。

  加藤 ところが、日本の場合には、民謡だけが昔からあつたわけでなくて、能の音楽や浄瑠璃の音楽など、高度に発達した音楽が一方にある。日本にはこの二つの流れがあって、」明治以後、そこに、西洋の音楽が入ってくるわけですが、西洋だって、何もべートーヴェンだけやってるわけでなくて、民謡がありますね。民謡と作曲家の音楽との間には、一種の関係があるでしょうね。-日本の近代の場合、音楽にかぎらずすべて、西欧をモデルにして近代化してきたわけですから、西欧からの外来文化というのは当然だと思いますが、しかし、私はそれだけかな、と思うんですよ。民謡は、日本でも西洋でも、全体としてはあまり変化していない。ところが、作曲家の音楽の方は、中世以来、ルネツサンス音楽からバッハとなり、モーツァルトになり、べートーヴェンになり・ブラームスになり、ブラームスから論理必然的にワーグナーとなり、そうすれば、どうしてもネオ・ロマンティークがあり、そうすれば、さらに、シェーンベルクというふうに、途中で急に変わったのではなく、ずーっと、内的論理に従って展開してきていますね。能や三味線の音楽は一意そういうふうには展開していないんじゃないでしょうか。

  原  中世、近世の日本音楽の歴史に関するかぎりそうですね。

 

 

日本音楽の文法は

 

加藤 そうしますと、大事な問題は、現代まで内的論理に従って展開してきたのは、西洋だけということではないでしょうか。だから、西欧の音楽が外国に影響を与えるので、これは、ただ近代化というものの一環としてということではないでしょう。日本の現代の作曲家は、もちろん能をとり入れることはできるけれども、とり入れる前に、音楽的文法のもっとも根源的なものがなければならない。西欧の作曲家たちが、シェーンベルクやストラヴィンスキーから受けとったものを、日本人は何から受けとるか。能から受けとるといっても、能は内的論理で発展してきていないし、たとえば、能と武満徹の間は切れているわけでしょう。「民族音楽」どは、いったい何を意味するのか。ロシアの音楽家たちも、ドイツのロマンティークの音楽の文法で、いわば語彙として、ロシアの民謡をたくさんとり入れて、ロシア人の心をうたったと思うんですよ。ドイツ・ローマン派がつくったシステムの中に、ロシアの民謡も入れるけれど、それが問題ではなく、ドイツの文法で自分たちの民族の心を語ったということが、問題ではないでしょうか。私がいいたいのは、語彙の問題ではなく、文法の問題です。国民音楽とはいったいなにか、日本でそれをつくるということはどういうことなのか。西欧の文法で、日本の民謡もとり入れてやるのか、もっとおもしろい材料があるということなのか、それとも、もっと根源的に、文法上の変化がそこに入ってくるということなのか、もし入ってくるとしたら、それはいったい何なのか、ということです。

 

原  とにかく、西欧のものも含めて、我々の中に文化的要素として活用できるもの、活用されつつあるもの、世紀を超えて発展してきた手法、方法は、いまの人間の心をうたうのにどれもこれも必要であり、有用でもあるものは、全部役に立てるべきではないでしょうか。うたうべき課題は我々をとりまいて山のようにある、我々はそれにどう実践的にきりこんでいくかという問題に迫られているわけでしょう。そういう点では、戦前に、日本的作曲方法を発展させみためにということで、山田耕搾の業績をすら、ドイツの借物だということで排除しようとしたことはまちがいだと思いますね。

 

加藤  そうですね

原 山田耕搾の歌は、旋律が端侃すべからざる表現力を豊富にもっているのみならず、これと合わさった伴奏を含めて、とても傑作だと思いますね。日本人の心をうたうに適した、もっと発展させることのできる、つまり、大オーケストラの作品にまで発展させることのできるものとして。

加藤 そこが問題なんで、彼の歌はまっだくその通りだと思いますが、彼の交響曲はそうではないですよ。

原 あれは失敗ですね。

  加藤 失敗したというより、うまくまねしてますね。交響曲については、独自のものを書くには至らなかった。べートーヴェンやブラームスが書いたものと別のものを書く力があるのかどうか。民族的な節を入れれば、別の構築物ができるのかどうか。

  原  山田耕搾の衣鉢を発展的についだ業績、あるいはそれを他山の石とした大型の仕事がないので、なんともいえませんね。しかし山田耕搾も、北原白秋と呼吸を合わせているかぎりは、やはり、歌どまりですね。音楽家山田耕搾が歌から先にのびるには、北原白秋と絶縁しなくてはだめだったと思う。歌だけについて言っても、彼と同時代のすぐれた詩人、そして白秋とは事かわってその生きた時代との矛盾をうたいあげた人は、数かぎりなくいたわけですから。白秋、耕搾がともに、この前の戦争に際して自らえらんだ態度を考えてみても、やはり創造者としての彼らは彼らなりの生涯をおえたとしか思いようがありませんものね。

  加藤 日本語の美しさに対する白秋の感覚は、他のどの詩人よりも上だったと思い表すよ。

原  北原白秋との融合は、間然する所のないところまでいってますからね。加藤  北原白秋と山田耕搾との出会いは、情緒を刺激する"珠玉の小篇"ですね。しかし、日本国は小篇でまにあうのかどうか。小さいことを、お寿司の盛り付けみたいにきれいに仕立てる。そういう例はいぐらでもある。日本の民族的なるものというのは、そういうことかしら。それとも、もう少し大きなもの、もう少し激しいもののなかから、日本の民族的なるものは生まれてくるのかどうか。たえず、こじんまりとしたもの、硯箱のデザインや『雪国』の中の、なじみの芸者の手を握ったら、少ししっとりして、少しあたたかいという、微妙にしてみごとなる描写――、しかし芸者の手があたたかろうと冷たかろうと、社会の歩みにはまったく関係ないですね。だけど、『雪国』は実にきれいにできていて、それも、民族的といえば民族的ですね。民族のもっているどういう要素が、そういうものではない民族性につながっていくのでしょうか。

 

何に心を託すかが

 

原  それが、これからの課題だということを私も言ってるわけです。ただ、日本の創造にしても、あなたがおっしゃった、小手先のきいた小ぎれいなものだけで終わっているわけではないですからね。歴史的にふり返ってみたら、それまでの文化に比してもっと別の性格をもち、別のタイプをもったもの、別の将来を示唆するものは、数かぎりなく出ているんですから。

  加藤  出ているけれども、そこに民族的要素がどういうふうに働いているんだろうということなんです。外からみて、あれは日本人だというはっきりした顔の輪郭ですね。それが出てくるかどうか。北原白秋や山田耕搾には、あきらかにそれが出ていますね。まさしく日本人の音楽だと、だれしも思うわけですよ。日本的なる芸術をつくるいうことは、目的でなく結果だと思います。日本人がいい芸術をつくれば、日本的になると思うんですよ、結果として。その芸術が二流、三流のものであれば、日本的にならないで、ただのまねにみえるでしょ。

原  結果としで日本的なるものが、自然な過程だとおっしゃる。私は反対はしません。確かにそうだと思います。ただ、それはそんなふうに手放しでほうり出してよいもんでしょうかね。私はそこに、意識的な営みが意味ないとは、とてもいいきれない。

  加藤 日本人の鳴らす新しい音、ほんとうに自分の心にしみる音は、いやでも、日本的になると思うんです。だから作曲家の場合、目的は、心にしみる新しい音を鳴らすということでしょ。

  原 それはあたりまえのことですね。チャイコソスキーやムソルグスキーにしても,美しい音をつくろう、自分の心に真実なものをつくろうと書いたに違いない、芸術創造者の人生なんだから。ただ、その場合に、彼らが、西洋的な音楽教養だけに満足していたかどうか。やはり、ロシア的で民衆的な音楽的発想がどういうものかが、つねに課題としてあったに違いない。プーシキンがロシアの音楽の創始者として大きな期待をかけて後援した作曲家グリンカも、ロシア国民音楽の祖といわれているけれども、その技術的拠りどころは西欧的であったことは否めないし、ボヘミアの生んだスメタナの音楽も誰も知っている「モルダウ」や歌劇「売られた花嫁」のかぎりでは、西欧先進国の作曲方法と絶縁しているわけではない。しかしロシア国民音楽の五人組やドボルザークがグリンガやスメタナを無視しては考えられないのも事実です。国民楽派と呼ばれるムソルグスキーやリムスキー・コルサコフ等の人々やドボルザークなどが、ロシアやボヘミアの「国民音楽」を創ろうという目的意識性に揺り動かされなかった、と考えるのは不自然というほかない。確かに、外国のような文法は、まだ編み出してはいないけれど、文法にしていけるものを、日本の中でつくっていかなければいけないし、それには、民衆の生活をよくしていくという社会の問題と切り離せずにあるのではないでしょうか。芸術創造者が自分の表現方法の問題を、自分がこうして立っている社会の問題の中で考えられるのかどうかということ。いま、どの方面をとってみても、人間疎外に立ち向かう課題に満ちていますよね。何をするにつけても、一歩すすめれば、こういう課題にぶちあたるでしょ。民族音楽の問題も、その課題との交差ですね。音楽における民族性というのは、民族的旋律の断片をどうこうという問題ではなくて、音楽でもって、いまの我々の人間疎外にどう立ち向かうかということの中に、方法論、技術論にまで到達する歩みがあるのではないでしょうか。

  加藤 そうでしょうね。何に心を託するかということが、非常に大事な間題ですね。おじいさんがうたっていた歌では、いまの若い人たちは自分たちの感情を十分に表現できない、だから、アメリカの流行歌でやるしかない、だがそれでほんとうに表現されるとは思わないし、おじいさんの歌よりも、アメリカの歌よりも、もっと彼らのほんとうの感情をうたえるような歌をつくりだすということですね。生活が変わったんだから、感情も変わり、歌も変わるのは当然だと思いますね。自分たちの中から出てくるものがあるはずなのに、外からのものを着せて、表面的にはあっているような気がしていても、一種のごまかしではないでしょうか。

 

日本語の中から

 

原  新しいものでよろこぶということは、新しいタバコの新しい煙の香りをよろこぶ、新しい酒の新しい味と香りをよろこぶということだけであってはいけないわけで、これを味わうことが、自分の心の伸びを意味するんだ、というためにも、それ自体を主体的に研究しなくてはいけない。つまり酒つくりにならなければいけないんではないでしょうか。

  加藤 そういうことですね。言葉でも、親の世代の日本語のままでは、いまの若者たちは感情表現できないわけでしょ。だからアメリカ語のカタコトというのではなく、もっと日本語の中から,日本語の使い方を工夫することでもって、自分たちの言葉をつくりだしていったらいいんで、あんな植民地のホテルのボーイみたいなカタカナ語を使ってるのは、実に悲しいですね。

  原  詩人が国民文学をつくってくれるというのはほんとうですね。

加藤  日本語の表現能力を開発するということは、詩人の任務だと思うんですよ。

原 『平家物語』にしても、語り法師が諸国を歩いて、そのなかで、庶民のねがいや夢をつかみ、いろんな人間像、女性像を盛りこんでいってますね。民衆の中に入って、芸能をつくっていく人間のあり方というのは、日本の歴史の中にずいぶんありますね。

  加藤  鎌倉から室町、それから徳川体制が確立するまでの間は、文化が、社会の上層から下層まで激しく流動していた時代ですね。室町時代の勧進能というのは、将軍から非人たちまで同じ能をみていた。それほど大衆的な娯楽というのは、NHKの大河ドラマができるまではないと思う。室町時代の能は、ちょうど、いまの高視聴率のテレビドラマのようなものですよ。能を上流階級、寺院と上層武士だけのものにしたのは、徳川時代ですね。能をとられたから、町人たちは歌舞伎をつくったんで、はじめはみんなのものだった。文化を支配階級だけのものにとじこめるというのは、徳川時代に始まったと思うんですよ。でもそのときは、町人層が、能をとられれば歌舞伎をつくり、和歌をとられれば俳句をつくりして、自分たちのものをつくってきましたからね。ところが、田舎侍の薩長による明治官僚政府は、さむらい文化を義務教育制度と徴兵制度で、全国民に押しつけようとした。商家のおかみさんが、女ことばを使って、ただ夫に従うなんてバカなことはないですよ。いっしよに商売しているんだから、それどころではない。農家のおかみさんにしたって、三指ついてなんてやってたら、田んぼは耕せないでしよう。男女差別を極隈までもっていって、何もできない女が理想だということをやったのは、明治以後でしょ。それが最近までつづいてきた。日本の女は初めからそんなバカなことではないですよ。積極的でした。武士階層というのは、せいぜい一〇%の人口でしょ。せいぜい一〇%の階層の風習の話をしているのか、国民の九〇%の風習の話をしているのか。日本の家族主義の伝統というけれど、どこの家族なのか。あれは、文部省教育がやったごまかしですね。たかが一〇%の支配層の伝統でしょ。政治宣伝的要素がつよい。

  原  まったくそうですね。該博な知識と豊富な経験に裏付けられた貴重なお話をどっさりうかがえて大変勉強になりました。こういう世の中に処していくことを余儀なくされている芸術創造者がここにどう立つべきか、立ったうえで創造の歩みをどう楫(かじ)とっていくのか等々、これからが議論だ、というところで時間がきてしまいました。またの機会にご教示を得ることを楽しみに、今日は遅くまでほんとうにありがとうございました。(了)

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