「没後五〇〇年特別展雪舟」を京都国立博物館と東京国立博物館が催した。「カタログ」は.毎日新聞杜刊(その展示作品の番号を以下ローマ数字で踏襲する)、。展覧会が「特別」であるのは、外国の所蔵品を含めて作品の蒐集が画期的だからであり、また中国画を主とする先行作品と雪舟の仕事との関係を明示しようと努め、前半生の作画を拙宗等揚の画業と同定して展示したこと(拙宗から雪舟への移行は、一四六五・年頃とされる)によるだろう。

 

私は東京の展覧会を見て、さまざまのことを考えた。その一つは、一般に作者と作品との不安定な関係である。作者の人生と作品は密接なこともあり、遠いこともある。たとえばゴーギャンは、タヒチに行かなければ、神話的な褐色の肌の女たちを描かなかったろう。しかしセザンヌは、どこの八古屋でりんご」を買おうと彼のりんごを描いたにちがいない。画家に.かぎらず、詩人の場合も同じ。藤村は私生活上の経験を密接にふまえて「私小説」を作った。しかし旅に痛んだ芭蕉の夢は、どこの宿屋のどの部屋に泊まっていようと「枯野」をかけ巡ったはずである。文学作品の「本文」の理解にとって作者の人生は無関係だという説は、あるときは妥当し、あるときには妥当しないと私は思う。

 

雪舟の人生については、わずかの事しか知られていない。岡山県赤浜に生まれ(一四二〇年頃)、その地の宝福寺に入り、そこから京都へ出て相国寺に住んだ。その後は山口県へ移って(一四五四年頃)その地方の有力者大内氏の庇護を受ける。大内氏の遣明使節団に加えられ、中国の寧波に上陸したのが一四六七年、同じ寧波から上船して帰国したのが一四六九年。その間中年に達した彼のおよそニケ年、寧波と北京の間を往復し、有名な禅寺天童山を訪れたり、中国の山水画(宋・元・明)を現場で見たにちがいない(みずから中国で描いた山水画もある)。帰国後の日本は、応仁の乱と一向一揆の時代であった。雪舟は諸国に旅し、今日の日本で国宝とするような傑作を高齢で病死する(一五〇二年頃)まで描きつづけた。

 

画面の特徴は、中国三代の水墨画の技法を洗練した同時代の日中絵画のなかでも群を抜く迫力である。第一は写実。観察の鋭さとデッサン」の筆の冴えで雪舟に匹敵する画家は、はるか後に応挙のあらわれるまで少なくとも日本にはいなかった。たとえば彼の猿は牧珪を範として及ばぬとしても等伯のそれを抜く。「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵97)の左隻の左端、雪の積もる樹木の幹と枝では、上面が雪で白く、下面が樹の肌で黒い。その明暗は、ほとんど西洋画の光の明暗に近い立体的効果を示す。第二に、空間の奥行き、対象の密集(重層する家屋の屋根)、広犬な拡がり(水、遠山、空)を表現する構図の妙。そこには水平軸に沿って展開する風景に一種の「リズム」をあたえる垂直な直線(切り立った岩の表面の稜線や帆を下した船の帆柱など)の活用も見られる(たとえば「四季山水図鑑」毛利博物館蔵一四八六73)。第三に「破墨」技法の多用と「抽象的表現主義」への接近。写実的な「描写」にすぐれる画風は同時に墨の濃淡によるほとんど抽象的な「表現」の名手でもあった。たとえば「破墨山水図」(東京国立博物館蔵87)。画面の下半部中央に、濃墨を交えた岩が水際から上へ向かって伸び、画面の上半部中央には霧の中からかすかに薄墨で垂直の遠山があらわれている。要するに画面中央に形と輸郭の明らかでない濃淡の墨が、垂直の軸に沿って展開されるのである。

 

雪舟は水墨画を「日本化」したのだろうか。私はそうは思わない。そうではなくて、彼は水墨画の中国流美学を徹底させたのであり、その意昧で日本の水墨画を「中国化」したというべきだろう。その美学は第一に写実、第二に「気韻」である。気韻躍動とは、筆勢であり、筆の動きにあらわれた画家の個性・気力・感情であり、内心の状態の外面化であって、つまるところ墨による「表現主義」である。中国画院の画論は、写実主義と表現主義の綜合を強調するが、前者を第一とし、後者を第二とする。少なくとも職業的画家の教育においてはそうであり、そのことは中国の書家が筆法の規則性を尊重し、極端に奔放な筆勢の強調を評価しないことと、見合うだろう。しかるに水墨画を中国から輸入した日本では写実の客観性と表現の主観性の順序が逆転する。絵画では文人画(南画)、書では僧侶の墨跡が貴ばれるのもそのためである。そういう日本で一般的な傾向に対し、雪舟の嗜好は鋭い観察を通して対象―個物と空間―の客観的秩序に向かっていた。そしてあらゆる俸大な芸術家のように、その傾向のなかから画面そのものの抽象的秩序へ向かう道を開こうとしていたのだ。

 

雪舟の絵と禅との間には何かの関係があったろうか。彼が禅宗寺院に住んでいたということだけからは、彼にとっての禅が何であったかを想像することはできない。たしかに道釈画はあるが、それは多くの画家が扱った対象を彼も.また描いたということにすぎない。雪舟の画面のすぐれた特徴は、いずれも中国における水墨画の伝統の枠内にあり、その技法の高度の洗練であるが、彼の発明ではなく、いわんや禅の背景を示唆するものではない。しかしその関係を示唆する唯一の例外がある。それは晩年の「慧可断扉図」(斉年寺蔵105)である。主人公は慧可ではなくて面壁のダルマ。そこでは慧可も含めての環境の一切から離れて、ダルマの身体が薄墨の極端な省略による輪郭の中に消えようとしている。頭部の描写さえも抑えられ、ただ大きな眼=精神だけが画面=全世界に向かって開く。これはおそらく雪舟の遺言であったのかもしれない。禅が彼の絵に影響したのではない。ただ一度だけ、最後に、彼の禅が絵になり、絵が禅に化したのである。

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