(月報その他)

・ 「加藤周一著作集に寄す」(石川淳)

加藤君の文學はみだれたるを匡して筋目を照らす炬のごとくである。もとより理にあきらかにして、しかも變通の妙をうしなはない。その説くところをうかがへば、逆風はこれに乘つて飛ぶによく、異物は取つてもつて玉を磨くべきものと知れる。


・「加藤周一氏をめぐる断片語」(桑原武夫)

加藤氏は感動を醒めた言葉でしか語らない。彼は人を酔わしめることがない。人を醒まそうとする。


・ 「必要にして十分な文章」(大江健三郎)


加藤氏の文体は、必要にして十分な言葉のみを記述し、しかもそこにあらわれる構造が、氏の思考と感情と経験を一挙に提示する。この文体はしばしば苦いが、とくにわが国の文壇、文学読者にとって良薬であることに疑いはない。

「加藤さんとアメリカ」(松山幸雄)

実力ナンバーワンの在野の剣客。アメリカに何かを「与えるgive」ものを持ち、アメリカ側から一目置かせることが出来なければ、アメリカ側から何かを「得るtake」することは出来ない。

「文学史と思想史について」(丸山真男)

私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。

 

・ 「加藤周一氏の文体について」 (木下順二)

・・・『羊の歌』の文体は、主観と客観の両方の視点を、一層自由に交錯させている。(ブレヒトのいう)Verfremdungseffekt(異化効果)のお陰である


・「見識の人」(日高六郎)


博識をほこる人は他にもいるかもしれない。しかし、見識あることを、いくらかの勇気をもって発言するものは、決して多くはない。しかも加藤は、世界の市民の常識を発言しているのである。その常識が日本でいまでも通じにくいことは、日本の不幸である。


 ・ 「師としての加藤さん」 (マイケル・ライシュ)

・・セミナーで、その卓越した頭脳と、必ずといっていいほど卓越した知識を示す一方、学生も教師と対等なのだとそれとなく語りかけてくる、独特の魅力を持っていた。

 

・ 「翻訳者から見た『日本文学史序説』」 (ドン・サンダスン)

(この本)以前に、日本人の書いた包括的な日本文学史は英訳されなかったと思う。驚くべきことである。

 

「雑感」 (窪田啓作)

凡そ加藤ほど複雑な個性はない。加藤の裁断の切れ味がよければよい程、裁断に追いつめられる筆者の苦渋が行間にあらはれてゐる筈で、切り捨てられたもの、或はそれに対する筆者の執着こそ、読者の琴線にふれてくる筈のものであろう。

 

「加藤周一」 (小倉 朗)

彼は鮮やかにえぐり出して、僕の無意識の領域に光を与えてくれた。・・・その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。

 

「加藤周一の勇み足」 (矢内原 伊作)

友人としての彼はまことに親切であり、友情に厚い。どちらかといえば彼は「理」であるよりはむしろ「情」の人である。

 

・「パリでの加藤周一さん」 (朝吹 登水子)

加藤さんは議論していて、自分の意見が「ノン」ならば敢然と「ノン」と言った。私は加藤さんの「ノン」がとてもいいと思った。

 

「回顧と感想」 (富士川 英郎)

驚嘆すべき博識多読は言うまでもないが、それ以上に注目すべきは、対象の本質と特徴をよく見抜いたうえ、一方に偏重することなく、すべてを全体のなかに釣合いよく収めている、その知的操作のあざやかさである。

 

・「その自己批評の規準」 (鶴見 俊輔)

原則をつらぬくということ。批評の対象となる同時代の出来事の、うつろいやすさについてゆくということ。その二つがともに加藤周一の仕事の中に実現している。・・・同時代に飛びかう合言葉を自分なりの経験によって定義しなおすことなしに使うことを嫌う・・・

 

・「あやしげに燃える情の炎」 (高瀬 善夫)

歌は百花繚乱、さまざまの展開をみせる加藤周一の地下の根のごときものであろう。情熱なしに成し遂げられる何ものもなし。

 

「加藤周一さん――友人にして世界人」 (ロバート・リフトン)

私の知る誰よりも「世界人」という呼称に近い。知のダイナモ、電気エネルギーばかりか、絶えることのないウィットとユーモアをしみこませたダイナモ・・・・・・加藤さんのような人を知ることは、人間存在の創造的可能性との恋愛に加わることなのである。

 

・「常識の怒り」(小田 実)

彼の言論には全体を通して、世の非常識、反常識に対しての怒りがあるように思えて、その怒り――常識の怒りの通底が私の心をとらえる。人間が人間なら当然もつ怒りだ。

 

・「私の幸運」 (岩井 克人)

加藤周一さんほど、非西欧社会における近代化のあり方という(ナウマンの)問題を持続して考え続けてこられたひとを、私はいまだに知らない。

 

・「百科編集長としての加藤さん」 (小林 祥一郎)

・・・・議論には権威主義のかけらもなかった。加藤さんはいつも論議の根拠を求め、提供する。また議論の共時的、通時的文脈をしめすために、大小を問わず、国際問題や歴史問題に入ってゆく。断定的な表現もあるが、注意深く読めば、そこにはユーモアがあり、率直な留保が明確に残されている。問題の立て方、対象との距離のとり方、思考の展開の仕方が開放的で明晰なのである。加藤さんが明快すぎるとする意見が、苦渋に無縁で、曖昧なものから目をそらし、明快にできるものだけを批評の対象にしている、といいたいなら、それは大いにまちがっている。

 

・「ある一人の自由な日本人」 (アラン・ジュフロワ)

日本語と日本的意識の不正確さに関しては、おそらく20世紀でもっとも慧眼かつ示唆に富んだ批評家。・・・・・獅子の如く猛く、同時に忍びやかで、ほとんどいつも相対論者であり、明晰な加藤周一は、現代の上田秋成ではないだろうか。

 

・「能と加藤周一」 (戸井田 道三)

加藤の藝術に対する接しかた・・・・・能でも映画でも、いいものはいいし、つまらぬものはつまらぬ、というごく単純なこと。もう一つは現在の問題にかかわる見方が能の見方でもあるということ。つまり藝術を享受するしかたに内外新古の別はない。・・・

 

・「加藤周一のこと」 (高田 博厚)

賢明な加藤の気質の中に「理解」と「解釈」への強い欲望――悪くなれば「野心」を感じた。

 

・「『羊の歌』余聞」 (高坂 知英)

彼が友を選ぶ時の、あるいは友情を継続する時の原則が、学生時代のそれと少しも変わらない。彼は「知」の人として世に知られるが・・・「情」としての面を知る人は少ない。

 

・「Big Picture」 (篠田 一士)

加藤氏は英語でいう big picture の批評家である。おどろくべき抽象力! 加藤の文業こそは、まさしく(太田正雄の)「形態学的分析と直感との協力」をよりひろやかに、より鋭い切っ先をもって展開した今日の盛時ではないのか。

 

・「開かれた独語家」 (佐伯 彰一)

加藤さんの態度は大前提の設定、検討から始まって、異国の読者に対しても十二分に開かれている。しかし同時に、この語り手は、じつは意外なほど独語家であり、説得ぬきの裁断につっ走りやすいことにも気づかずにいられない。孤独な雄弁という、やや矛盾した言葉まで思い浮かぶ。

 

・「加藤さんと外国語のこと」 (鈴木 道彦)

外国語が上手な人は、今では掃いて捨てるほどいるだろうが、私はこれほどまで外国語を手段として駆使できる人を余り他に知らない。・・・作り出すのはフランス語だが、それはフランス人すらも容易に作り出せないフランス語であり、極端に言えば一種の加藤語であろう。

 

・「高校時代の加藤周一」 (橋本 謙)

勝負という時には強さを発揮したように思う。勝負事においては必勝は信念だけで達せられるものではなく、技術を伴うものである。

 

・「加藤周一氏と万蔵の芸」 (野村 万作)

恐らく加藤氏は丁度、外国の芸術家が、日本の伝統演劇に感嘆するような、素直で鋭く、客観的な眼を持っていられるのであろう

 

・「日本文学史のために」 (ロナルド・ドーア)

最良の意味でのコスモポリタン。加藤周一ほど まことにルネッサンス人的な関心と業績の幅広さを発揮した人はおそらく少ない。

 

・「加藤周一との長いつき合い」 (中村 真一郎)

彼の本質は、彼の日常の行動のどのような細部によりも、彼の書いたもののうちにある、と私は信じている。・・・・・・彼の問題提起が契機となって私自身の自己発見に導かれたこの事件が、結局あらゆる知的恩恵に増して私には感慨深く思い返される。真の交友とはかくの如きものであろう。

 

・「『日本文学史序説』の文章」 (大野 晋)

加藤氏は医者である。文学史を見るにも、個々の喜び悲しみのありようを、それらしく語るよりも、喜び悲しみ苦しみの筋を記す単語を多く使った文章を書いている。

 

・「写真の語ること」 (吉田 秀和)

こどものころから今日に至るまで、ずっと一貫して美しく凛々しい容貌の人間だったということを確認できるのは、ひどくうれしい。・・・・・彼の文体は、ポレミークに似て、実は対話への招待であり、読み手に対して盲従を求めず、全面的賛成を求めようとしない文体である。しかし、その彼がどんなに魅力的に語り、他人への思いやりを忘れぬ美しい心と姿の人であるか。写真はそれを文章から読みとるための手がかりとなるだろう。

 

・「加藤周一さんのこと」 (池田 満寿夫)

会話の最大の魅力はユーモアにあった。話によって変る表情は、どんな歌舞伎役者にも遜色なかった。おこるときは、あの大きな眼をぎろっとむき、笑う時は赤児のように笑う。・・・・・・会話に加わった、どんな人間に対しても平等に楽しみ関心を持つようにしむける。・・

 

・「加藤周一さんの不思議な力」 (宮脇 愛子)

いつも加藤先生にお会いすると、不思議なことに活力をいただくかのように、私は元気になる。

 

・「自我の再定義――加藤周一の自伝『羊の歌』」 (ジャニン・ジャン)

加藤氏には、ちがったアイデンティティをおびたつもりになったり、故意の変装をこらしたり、あるいはさらに自己を戯画化し、痛烈な自己嘲笑をさえ弄したりして、別の役柄を演じている自分を試してみようとする意図があるのだろう。

 

・「人生の醍醐味」 (イルメラ・日地谷・キルシュネライト)

まったく無名な未知の若い外国人筆者の著書を原文のドイツ語で読むだけでなく、それについて英語で長い書評を書くような人物は、特に偏見や慣習から自由で柔軟な思想を持った人間に違いないとの私の予想は、ただちに立証された。

 

・「加藤さんと文楽」 (垣花 秀武)

加藤さんと私は長年友人として親しくしているが、その基礎には1941年12月9日の夜のあの共通の経験がある。・・・死去してしまった友人達の存在についてしっかりと話し合い、私達自身の生のしめくくりにそなえたい。

 

・「作家を知るということ」 (水村 美苗)

・・・加藤さんが登場する。するとその瞬間から、まったく違った空気が流れ出すのである・・・何もない教室の隅々まで、人類が数千年かけて積み上げてきた最良のものがぎっしりとつまり、美しい色と形を見せ、えもいわれぬ音楽を奏でて、踊りだすのである。・・・それを可能にするのは知性よりも一段上の精神の働きである。何が「真実」であるか、何が「正しい」か。この二つをぜひ知ろうとする精神である。

 

「知性へのシニシズムを超えて」 (上野 千鶴子)

知識人のねうちがこんなに下がった時代はないし、知性に対するシニシズムがこんなに蔓延した時代もない。こんな時代に加藤周一を読むことは、ほとんど反時代的な感じさえする。

 

加藤周一『羊の歌』 (樋口 陽一) 

羊年生まれの著者みずから題して『羊の歌』という。 この羊は、しかし、群れない。牧者にひたすら従うことをしない。その眼はやさしいが鋭く、たちまちにして牧者の真贋を見分ける。

 

 

 

 

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