40年前:<政治の季節>を再考する ベトナム戦争

 「団塊世代」の人々が20歳前後だった1960年代後半は激動の時代であった。東西冷戦下で国際情勢は動揺を繰り返し、高度成長を果たした日本で も学生の「反乱」が耳目を集めた。多くの国民が政治に熱い関心を向けていた一方で、社会風俗や文化・芸術の面でも新しい流れが次々と生まれた。このシリー ズでは「40年前」の出来事をできるだけ時系列で追い、今日の目から歴史的な意味を問い直したい。初回は、この時期の世界と日本の状況に長く深い影を落と した「ベトナム戦争」を考える。かつて全共闘にも参加した社会学者、橋爪大三郎氏の寄稿と、国際的知識人である評論家、加藤周一氏のインタビューをお届け する。(毎月第1木曜掲載。なお、ベトナム反戦運動については改めて取り上げます)

 ◇日本にとって「対岸の火事」 冷戦下の矛盾抱えつつ反戦運動−−橋爪大三郎

 ベトナム戦争は、奇妙な戦争だった。宣戦布告がないまま、何十万もの米軍が派兵された。相手は正規軍ではなくゲリラで、農民にまぎれていた。戦争は泥沼化、大規模な作戦を何回繰り返しても何の戦果もなかった。日華事変とそっくりの展開だ。

 ベトナム戦争を境にアメリカ経済は下り坂となり、入れ替わりに日本が経済大国にのし上がった。アメリカは対中接近を選択し、ソ連崩壊への一歩が踏み出された。だが当時はまだ、冷戦のさなかで、「共産主義の浸透を防ぐ」ためなら、アメリカに正面から反対はしにくかった。

  いまでは忘れられて実感しにくいが、冷戦は、核戦争の恐怖が人びとを支配した時代だった。被爆国日本で、「核戦争反対」を叫べば、誰もが賛成した。けれど も、どうやって平和を実現するかの具体策になると、アメリカを支持する自民党、平和中立を主張するグループ、ベトナムを支持するグループがいがみ合った。 新左翼の学生たちは、日米の資本主義に反対なのはもちろん、ソ連流の共産主義や日本共産党にも反対し、独自のスローガンを掲げて過激な街頭行動を繰りひろ げた。

 ベトナム戦争は、当事者でない日本にとって、どこか対岸の火事のようだった。そのくせ、アメリカ軍が日本の安全と経済的繁栄を保障 しているという現実を、否応(いやおう)なしに思い知らされるようで、居心地が悪かった。その昔、朝鮮戦争の当時、日本は占領下で貧しく、余計なことを考 える余裕もなかった。だがベトナム戦争のころには、豊かさが実感できるまでになり、現状が矛盾として強く感じられるようになったのである。

  ベトナム戦争にもっとも敏感に反応したのは、戦後ベビーブーム生まれの学生たちだった。六○年代には中卒、高卒で就職する人びとも多く、「大学生はエリー ト」という感覚がまだ残っていた。自分たちが先頭に立って行動しなければという、学生運動の伝統が生きていた。アメリカやヨーロッパの学生反乱や、文化大 革命の様子がテレビで報じられ、連鎖反応を起こしたという側面もあったろう。

 「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連は、それまでに ないタイプの組織だ。大衆消費社会が幕をあけ、戦後生まれの若者は新しい感覚を身につけるようになった。政党や労働組合といった既成の組織に、縛られるの はごめんである。新左翼は、いくつものセクトに分裂して、細かな方針の違いを非難しあっていた。そのどれにも収まらない人びとが、べ平連に集まった。綱領 も指導部もない、アメーバのような組織である。思い立ったらすぐ集まり、行動する。この特徴は、全共闘とも通じるところがある。

 学生や若 者の行動が目立ったのは、裏を返せば、多くの日本人がベトナム戦争に切実な関心を持てなかったということだ。ベトナム戦争は、核戦争ではない。アメリカが 勝手にやっている通常戦争である。やめてはもらいたいが、やめさせるまでの力はない。在日米軍基地が、ベトナム戦争の足場になっているのは困るが、米軍に 出て行けとまでは言えない。日本の安全保障に差し支えるからだ。べ平連や学生の運動は、いちおうの共感を集めたものの、国民全体を巻き込むまでにはならな かった。

 ベトナム戦争は、日本よりもアメリカに大きな傷跡を残した。世界最強のアメリカが勝てなかった。戦争の正当性やアメリカの価値観に疑問符がついた。ヒッピーや麻薬や犯罪が拡がり、アメリカは自信を失った。七○年代以降の世界は、反抗的な若者文化を組み込んで動いていく。

  韓国は、ベトナムに派兵した。日本は、参戦を求められなかった。国連の決議もなかったし、憲法9条と国連の定める義務との股裂(またさ)き状態もなかっ た。湾岸戦争のときのようなことにはならなかった。冷戦と米ソ対立のもと、国連安全保障理事会は機能せず、そうした潜在する矛盾が覆い隠されていたからで ある。

 ベトナム戦争は、アメリカの犯した過ちだ。ソンミ村虐殺事件や枯れ葉剤散布や、いまわしい出来事の数々に対して、人道的な憤りを表明しないわけにはいかない。それが日本人にとってのベトナム戦争だったのである。(はしづめ・だいさぶろう=東京工業大教授)

 ◇ナショナリズムの強さ示す 「イラク」で教訓生かせぬ米−−評論家・加藤周一氏に聞く

 −−加藤さんは60年にカナダの大学に赴任し、ベトナム戦争の間、ほぼ北米で過ごしたわけですが、当時の印象は。

  加藤 米国では60年代後半、まず大学で反戦運動が起こり、次第に全土に広がりました。しかし、世論が反戦に傾き、ジョンソン大統領が北爆の部分的停止と 再選不出馬を声明(68年3月)するに至る決め手となったのはマスメディア、特にテレビの力です。人気ニュース番組のアンカーマンで、米国民の信頼を得て いた保守的なジャーナリスト、ウォルター・クロンカイトが戦争反対に踏み切ったのが大きかった。

 −−終結から30年以上経過したこの戦争を、今どのように位置づけますか。

  加藤 冷戦のイデオロギー対立の下で起きた典型的な戦争で、市場や資源をめぐる争いではありませんでした。貧しい農業国だったベトナムと、世界最大の工業 国で最強の軍隊を持つ米国という、力関係に大きな差のある国同士が戦ったのも特徴です。さまざまな点で新しいタイプの戦争であり、その後の戦争の多くに 「ベトナム型」の特徴が見られます。端的には「ナショナリズムを支えにしたゲリラ・民兵」対「ハイテクを駆使した軍隊」という構図です。

 −−強大な米国が敗れたのはなぜだったのでしょう。

  加藤 米ソ2大国の対立は核兵器の存在が前提にあり、両国間の全面戦争は不可能でした。「ドミノ理論」に立つ米国はアジアの共産主義化を食い止めるためと 主張し、ベトナムに介入しましたが、実際はこの地域の歴史と情勢を全く理解していなかったと言わざるをえません。米国が一体と見なした中国とベトナムは歴 史上、深い敵対関係にあり、朝鮮戦争とは違っていました。また、ベトナムはフランスと日本の植民地時代を経て第二次世界大戦後フランスに勝利したばかり で、最もナショナリズムが高揚していました。そこへ最後にやって来たのが米国でした。

 −−一般の日本人は当時、ベトナム戦争をどう見ていたのでしょう。

  加藤 遠い国での戦争という感覚だったと思います。米軍の日本占領と朝鮮戦争、中国の内戦への米国介入を経ていますから、日本は米国側から見る視点が強 かった。日本人が死ななかった戦争で、反戦運動も弱小国への爆撃や大規模殺戮(さつりく)、環境破壊に対し、人道的におかしいという正義感からの同情が大 きかった。

 −−ソ連・東欧の社会主義国の崩壊で冷戦も過去のものとなりました。ベトナム戦争の歴史的意義は。

 加藤 一つはベトナム反戦を中心に、既存のシステムや権威に対するコンテスタシオン(異議申し立て)の動きが世界的に広がったこと。学生など若者を主体とした運動がヨーロッパでも日本でも大衆的な広がりを見せました。

  もう一つは、特定の条件の下ではナショナリズムが非常に強い力を発揮することを示した点。ナショナリズムを動機とした相手には、イデオロギーや圧倒的な武 力をもってしても対抗できない場合がある。たとえ相手の体制が政治的自由の制限など人権に問題を抱えていたとしても、武力による介入は有効ではありませ ん。ところが、今のイラク政策を見ても、アメリカはベトナム戦争から教訓を学んでいませんね。その意味で、ベトナム戦争は決して遠い昔の話ではなく、現在 の状況を理解するための「参照事件」として今も生きています。【聞き手・大井浩一】

 ◇ベトナム戦争の経緯

 第二次世界大戦 後、独立を宣言したベトナム民主共和国(北ベトナム)とフランスとの戦いは、54年のジュネーブ協定によりフランスが撤兵、終結した(第一次インドシナ戦 争)。その後、米国が介入し、55年にベトナム共和国(南ベトナム)が成立。両者と、北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)との間でベトナ ム戦争(第二次インドシナ戦争)が起き、周辺のラオス、カンボジアなどを巻き込みながら長期化した。

 ベトナム戦争は解放戦線が成立した60年ごろから始まり、64年のトンキン湾事件をきっかけに米議会はジョンソン大統領に戦時権限を付与。米軍は65年から北爆を開始し、全面戦争に突入した。

  しかし、敗勢と世界的な反戦運動に押された米国は69年から撤兵を開始。73年、パリ和平協定が調印され米軍は完全に撤退した。一挙に劣勢となった南ベト ナムに75年、解放勢力が攻勢をかけ、サイゴンが陥落し戦争は終結。76年、南北統一のベトナム社会主義共和国が成立した。

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 ◇ベトナム戦争関連年表

60年12月 南ベトナム解放民族戦線結成

62年 1月 米軍、枯れ葉剤散布を開始

〃   2月 サイゴン(現ホーチミン)に米軍事援助司令部発足

64年 8月 トンキン湾事件

65年 2月 米、北ベトナムへの爆撃(北爆)開始

〃   4月 日本で「べ平連」発足

66年 5月 中国で文化大革命始まる

68年 1月 解放戦線と北ベトナム軍、テト攻勢開始

〃   3月 ジョンソン米大統領が北爆の部分的停止と次期大統領選不出馬を声明

69年11月 ソンミ村虐殺事件発覚(発生は68年3月)

72年 2月 ニクソン米大統領が中国訪問

73年 1月 ベトナム和平に関するパリ協定調印

〃   3月 米軍撤退完了

75年 4月 サイゴン陥落、ベトナム戦争終結

76年 7月 ベトナム社会主義共和国成立

 (遠藤聡『ベトナム戦争を考える』明石書店など参照)

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